豊島区
戦争体験記
「燃える空と地の間で!! -私の空襲体験-」
当時私は、豊島区池袋1丁目、池袋東口から豊島区役所の通りで六つ又ロータリーから向原の都電へ行く路沿いに家がありました。時習小学校や巣鴨拘置所(現在のサンシャイン)などがある近くです。
小学2年生の春のことです。
4月13日の晩は風もなく穏やかで静かな夜だったと思います。夜10時頃に空襲警報が発令され、父母と兄姉たちと身支度をととのえて防空壕に入り様子をみていました。
壕の中は2畳か3畳ぐらいで、かび臭く、百足虫や玉虫、コオロギなどのいる気持ちの悪い穴蔵で、家族7人が入るといっぱいです。
しばらくしてB29の爆音と味方の高射砲の鈍い音が響き、だんだん大きく近くなってきました。空がピカッと光り周囲が昼間のように明るくなり、近所で地鳴りがしてなにか落下したようです。防空壕から外を見ると、近くで焼夷弾攻撃が始まったようでした。父と兄が思わず出した「女、子供だけでも逃げろ!」との叫び声に母と姉2人と私の4人で、父たちを残して飛び出し、防空頭巾の上から互いに水をかけ合い大通りに出ました。
すでに、近くの鉄工所や小学校は火の手があがり、真っ赤な火柱が立っていました。その日は敵機が大編成隊でやってきたらしく、さまざまな音と焼夷弾の油に火がつき雨のように落ちてきました。耳の鼓膜が破れるようで、私達の叫び声など聞こえません。母の手や腰ひもにつかまり引っ張られるように暗い方向を求めて走りました。
どこをどう逃げたかわからずにいる時に姉の一人が居ないことに気づきました。母は少し戻って探しましたが、火の雨の中ではどうにもならず、3人で逃げることにして、池袋駅方面に無我夢中で走りました。母は見失った姉のことが気がかりでしたが、覚悟を決めた様子で常に念仏を唱え、「南無阿弥陀仏」「なーまんだぶ」と、口にしていました。
私もいつのまにか素足で靴などなくなり、大人達の流れの中で泣きながら死にもの狂いでした。どこをどのように走ったか分からず池袋駅前都電の終点に出ていました。路巾も広く多くの人が集まっており、根津山という広場でやっと落ち着くことができました。
知らない人たちの顔は黒く炭を塗ったようになり、目は赤く青ざめて疲れ切った状態でした。この辺は雑司ヶ谷墓地や護国寺に通じる所で、被害は少なかったようです。
夜が白々と明けて周囲が見えるようになってきて驚きました。家々が焼けて焼野原となり、火が強風にあおられて熱風とほこりや煙が私達にも迫ってくるようです。
自警団の人達が廻ってきて、池袋の西口にある、立教大学が安全な避難場所だと教えられて、みんなが大学の校内へと移りました。
そこには多数の人が逃げてきていました。衣類は焼け焦げて負傷して治療を受けていました。朝の10時頃になって、被災者たちは受付をしてから食事の代わりにカンパンを一袋ずつ配ってもらい、水を飲んで一息つくことができました。
後になって知ったことですが、立教大学に隣接した所に、あの有名な「江戸川乱歩」氏が住んでおり、混乱の中の私達の世話をしてくれたということでした。
昼過ぎになって家の方へ帰れそうだというので、我が家を心配しながら急ぎました。いつもなら15分か20分で帰れる所ですが、この時は途中の被災状況があまりにひどくて、歩く道には足の踏み場がないほど物が散乱していました。
死人が沢山いて地獄絵のような光景です。地面に伏せた状態で背中に焼夷弾が刺さり、真っ黒こげの人は特に目に焼きついて忘れられません。乳飲み子を背負って死んでいる母親や、自転車で立ったままで黒焦げになっている人など、不思議な光景ばかりで、あまりにひどい物を見たショックで気分が悪くなったことを覚えています。
人も家も何もかもが、材木が焼けた表面のように、消し炭のようになっています。私達は1時間ほどかかって我が家のあった所に行きましたが、影も形もなく煙がくすぶっているだけで全部灰になっていました。近所の人達も少しずつ戻ってきて、元気な姿を見て安心したのですが、上の姉だけは一緒に逃げて途中見失ってわかりませんでした。
家族で手分けをして、四方八方探したのですがわかりませんでした。ところが夕方6時頃になって、その姉が、巣鴨の方の人に連れられて戻ってきたのです。私達家族は一人も欠けることなく無事再会できたのは不幸中の幸いでした。
4月14日の夜は防空壕の中を整理して一夜を過ごしました。水や食料が無いため何日も焼け跡にいるわけにはいきません。2日目には近所の人が死んで、その家の人と数人で野火の送りをして悲しい思いをしました。
私達は親戚が雑司ヶ谷や小石川に居て救いを求めたのですが先方も同様に混乱していました。伯父も同じ池袋で大変なのです。
空襲で家なしになってからは毎日のように、炊き出しのおにぎりや、具の入っていない雑炊を何時間も並んでもらってきては、家族で分け合って食べました。焼け跡の整理をして使えるものが無いか、掘り出したりしましたがほとんどだめでした。
幸いなことに、兄と姉が沖電気の田町工場に勤務していた関係で、会社の課長さんの村田さんが、東京はだめだから群馬の桐生市に社宅があるからと手配をしてくれました。会社の援助もあり、被災後4日目に家族全員で桐生に移ることができました。
私達は着のみ着のままの状態でとりあえずの生活が始まりました。それから家族全員で食べるためだけに毎日働きました。
群馬に移ってからも毎日のように近くの大都市が焼かれて、地方にも及ぶようになり、熊谷市、前橋市、伊勢崎市、太田市、桐生市へと空襲になり爆撃が繰り返されたのです。あるときには、近くに機銃掃射により低空飛行で攻撃があり、爆弾投下で大きな穴をあけられたり、飛行機の空のタンクを落としていくなど恐怖をあおられていく毎日でした。
昭和20年8月15日は家に居たのですが、両親がラジオからの玉音放送を聞いて戦争に負けたことを知らされました。これからは進駐軍が入ってきて、皆殺しにされるかもしれないと心配したものです。私の家の前には水道山という丸い山があり、その中腹に戦死者の忠霊塔があり、そこへみんなで集まって祈ったのです。
その後も小学校にも行けず、3日に1回は買出しのために電車に乗って近くの村に出かけました。食べられるものなら何でも良いのです。夏の暑い日など農家を廻り、いも類、瓜類、野菜などお願いしながら夕方まで歩きました。時には10歳の私でも5~6貫(1貫は約3.75キログラム)を背負って帰るときがありましたが、家で母が喜ぶ顔を見るために頑張ったものです。
それから月日が経ち時代は大きく変化しています。世界では相変わらず戦争で苦しめられている人々が大勢いるのです。日本でも安心安全と言ってられません。犠牲になるのは常に民衆なのです。後世のためにも戦争は良いことは全くなく悪であることを主張したいものです。
私は桐生市で5年間ほど苦しい思いをしましたが、池袋に戻ってきて中学に通うようになりました。
あの頃の思い出は悪夢でありますが、良い経験をしたと考えたいものです。
(2014年7月)
[4・13根津山小さな追悼会実行委員会編集発行『城北大空襲被災体験を語り継ぐ 4・13根津山小さな追悼会-被災証言集第三集-』2018年3月25日発行から転載]