杉並区
戦争体験記
中島飛行機 と 戦争
私の家を中心にして表記すると、南500メートルに中島飛行機の工場がある。南東には高射砲陣地がある。そして、西3キロメートルの方(武蔵野市)には中島飛行機武蔵工場がある。北には通商産業省の機械試験所がある。
学校への集合場所は近所の道路であった。道路は内田秀五郎村長のお陰でこの地域の道路は碁盤の目のようである。当時は、周りは畑で、人も自転車も自動車もあまり通らない。今の四宮小学校の北の道を25メートル東の場所に皆が集まり、上級生が先頭に一列で登校した。私は途中で、北を見ると西武線の電車が見え、幼心に大人になったら車掌さんになりたいと思った。
子どものころ、家で兄たちと日向ぼっこをしていたら兵隊さんが来て、けやきの調査・測定をしていた。後で聞いて分かったことは、この木の南東の方(現在杉並区立中瀬中学校)に高射砲陣地があり、砲撃するのに邪魔にならないか測定をしていたとのこと。その後、分かったことは、この欅は特に、高射砲の射撃の邪魔にならないとのことで、伐採を免れた。現在、老木となり枝がきられているが杉並区の貴重木1号である。陣地の近くの天祖神社の木や障害になる木は、切られたとのこと。
戦況が厳しくなるとのことで家の前に防空壕が作られた。80歳のお爺さん、お婆さん、両親、兄弟、合わせて9人が入れる大きさの防空壕である。深さ1.5メートル、上には竹で作られたドーム型の屋根でできていた。
穏やかな日和の日の昼頃、空襲警報が鳴る。家族は防空壕に避難した。その後、空襲警報が解除され、外に出た。そして、空を眺めていた時、上空に見慣れない飛行機が北から南の方に飛んでいた。(B29か)その後を追うように高度は半分ぐらいの所を、小型の飛行機が飛んで行くのを見た。子供心に、頼もしく思えた。
しばらくして穏やかな日であった。また、空襲警報が鳴った。父は桃井第五国民学校に警防団員として駆け付けた。家族は防空壕に避難した。お爺さんは「自分は年を取っているから」と広間で一人座っていた。その内、家の50メートル程西の方で二つの爆発音と揺れがした。しばらくして空襲警報解除となり、恐る恐る防空壕から外に出ると、けやきの枝が多数落ちていた。直径10センチ程の枝があたり一面に切り落とされていた。また、あたりには爆弾の破片も落ちていた。枝は飛んできた爆弾の破片で切られたのである。
このような中、広間にいたお爺さんは無事だった。お爺さんの無事を見て、皆、安堵した。しかし、広間の大黒柱には4センチ程の穴が空いていた。これは爆弾の破片が食い込んだ穴だと分かった。(この家は、現在、杉並区井草の地に移築されて、一般公開されている)
落とされた爆弾は防空壕の西20~30メートルの畑であった。爆弾が爆発した穴は二つあり、一つは深さ5メートル、もう一つは2メートルと浅いものであった。浅いところで爆発した爆弾の破片が四方に飛び散ったものと思われる。当時、この辺は畑や林で被害は近隣の家には及ばなかったようである。この時、東の方にも爆弾や焼夷弾も落とされていたが、畑であったため、大きな被害は、無かった。
西武新宿線の北の方では、ヤギ小屋に爆弾が落ち、多くのヤギが亡くなったとの話を聞いた。
また、その近くには、通商産業省の機械試験所があったが、爆撃は受けてはいなかったようである。
その後、東京都は帝都の無差別爆撃は必至の事として、縁故疎開・集団疎開が行われた。このように爆撃の危険から子供を守るため桃井第五国民学校では集団疎開をさせることになり、疎開先は宮城県古川市の古梅荘という料亭であった。戦時中のため集団疎開の子どもたちのため提供されていた。対象は6年生から2年生であった。その後、1年生も疎開してきた。
わが家では6年生の長男は家を守るため疎開には行かず、次男・3男の5年生と4年生の二人の兄が集団疎開に行くことになっていた。何も知らない2年生の私は兄たちが疎開に行くことになったことを知り、私は、遠足にでも行くような気持ちで駄々をこねた。親も長男もやむを得ない、として私も兄たちと3人で集団疎開に行くことになった。母は、3人の身支度をしてくれた。特に私には、母が手作りの靴を作ってくれた。
出発の日、桃井第五国民学校に32名が集合。説明・注意を聞き、西武線の下井草駅まで歩いて行き、家族とはそこで別れ、電車に乗り、高田馬場で山手線に乗り換え、上野駅で下車。多くの人が行き交う上野駅の人の多さに驚く。次の東北線に乗車するまで、駅の広場で一休み。定刻がきたとの合図で汽車に乗る。初めての汽車に心躍る。車窓の家並みが段々変わり汽車が順調に走るのを見て、ふと、家の近くで爆弾が落ち爆発したことから、不思議に思った。そして、車中で母が作ってくれたおにぎりを皆で食べ、古川へ向かう。降りる頃に皆の顔が汽車の煙で黒ずんでいた。古川の駅を降りると、地元の方々や小学生が迎えに来てくれていた。荷物を持ってくれるように手を出してくれる子もいた。
歩いて、古梅荘に32名が到着。そこには昭和19年に疎開していた112名の子供たちがいて、出迎えてくれた。各部屋に分かれ、夕飯を食べた。次の日、私たちは朝食をとり、これから泊まる萬楽へ身支度をして移動した。そこは古梅荘より小さく、広い部屋は男部屋、女子はこじんまりした部屋、そして、先生の部屋に分かれ、荷物を整理して、そこでの生活が始まった。足の短い長机を並べて勉強をしたり、食事の時もその長机を使った。風呂は近所のお風呂屋さんを利用した。
しばらくして、近所の探索の日がやつてきた。宿を出て、線路を越えて見ると田んぼが広がっていた。皆、米どころに来たので、これで食事の心配はないと思ったが、食事の時に上級生は出されたご飯をおにぎりにして、こんなに小さいと言ってる子もいた。また、ある時は遠足で広瀬川まで出かけたりもした。宿でおやつにサツマイモが出されることもあったが、実が少なく、すじの多いサツマイモをいつまでも食べていた。
また、空襲警報が出たら避難する防空壕をつくる作業を見たら、土を20センチメートル掘ると水が湧いてきた。そのため、防空壕は「かまくら」「雪室」のようになっていた。
20年8月6日 広島 原子爆弾投下、8月9日 長崎 原子爆弾投下、8月15日 正午
終戦放送 廊下に上級生から順に正座し、玉音放送を聞く。上級生は涙していた。
数日して、道にいた上級生が慌ててアメリカ兵が乗っている車が来ると叫び、皆部屋に駆け込んだ。特に何もなく、一安心。
20年10月24日 杉並宮城疎開学童帰還始まる。私たちも荷物をまとめ、帰還した。
家に帰り、玄関に次男、三男、私が並び、「ただいま」とあいさつ、皆が温かく迎え入れてくれた。おやつに食べたサツマイモは実も多く美味しかった。いつの間にか、?せていた体も元に戻ってきた。
しばらくたち、疎開の仲間が集まる会合が通産省機械試験所(現井草森公園)食堂であったり、高尾山遠足もあったりして、学童疎開の思い出の幕が下りた。
また、小学校2年生の生活が始まり、ローマ字の学習が入ったり、仲間との言い争いもあったが、無事卒業。中学は八丁通りを境に東は中瀬中学校、西は井草中学校となり、幼馴染とも別々の中学生となる。
井草中学では、開校3年目で、桃井第五小学校、桃井第一小学校、三谷小学校、桃井第四小学校からの卒業生が来ていた。それぞれの地域の特性を持ち、教室の雰囲気は興味と関心が入り混じっていた。そして、新しい校長先生がこられたとき、各クラスにバレーボールが配られ、昼休みにはグランドはバレーボールをする生徒で賑わっていた。
私が3年生になったとき、体育の先生が声をかけて下さった。今度、杉並区でバレーボールの大会があるので、放課後、バレーコートに集まる様に、と。
10数人が集まり、先生からまず、パスの練習をした。そして、ポジション発表。私は9人制の前衛のセッターを命じられた。それぞれがポジションにつき、練習した。
初参加の井草中は、順調に勝ち進み、決勝戦は学生帽がコーチ・監督の杉並区立松渓中学校です。フルセットの末、残念ながら敗退。翌週、全校集会の時、杉並区のバレーボール大会に参加した選手を皆の前で紹介して下さり、拍手を頂きましたこと、一生忘れません。
2学期、進路の先生が「今度、学校の南にある富士精密工業で採用試験がある。希望者は集まる様に言われた。私は、受験し、合格した。」
昭和25年4月 富士精密工業入社、初任者の研修を受ける。配属は自転車に付ける排気量50CCの製造職場。クランクシャフト・コネクティングロットの仕上げ、エンジンの性能試験を経験。3年目にはプリンス自動車の変速機の組み立てを経験。休み時間に爆撃を受けた跡があるか見たが、それらしき形跡は無かった。
思うに、戦時中の攻撃目標は荻窪工場ではなく大量生産していた武蔵野の中島飛行機武蔵工場と思われる。その惨状は私が中学3年生の時、杉並区スポーツ大会が武蔵野競技場で開催。西武新宿線の東伏見から会場に行く途中で目にした破壊されたままの工場が戦後も残されていた。
【歴史 大正14年(1925)中島飛行機 昭和19年12月3日 中島飛行機武蔵工場爆撃を受ける。昭和20年(1945)8月終戦、兵器生産の停止等と解散の終戦処理命令により民需産業転換を目指し、富士産業株式会社に商号変更。その後、東京工場は、富士精密工業、プリンス自動車工業と社名変更、昭和41(1966)年、日産自動車(株)と合併、この地は荻窪工場となる。平成10年(1998)には移転。跡地は杉並区の桃井原っぱ公園となる。
