目黒区
戦争体験記
広島被爆体験
私は1938年1月3日、東京は東中野住吉町10番地に次男として生まれた。父母は広島出身で父は東京音楽学校(現在東京芸大)バイオリン科の助教授であった。1937年日中戦争突入、1939年第二次世界大戦勃発。1941年には太平洋戦争へ突入。戦況は次第に悪化していき、1944年には2歳年上の兄は長野県へ集団疎開。私は広島の江田島の海軍兵学校教官であった伯父のところへ預けられた。東京は空襲が激しくなってきたので、父は1945年3月10日(東京大空襲のあった日)付けで音楽学校を依願退職して両親は広島市内へ疎開してきた。兄と私も両親のもとへ。そして8月6日、8時15分、朝食のため家族4人揃ってちゃぶ台を囲んで座り、茶碗と箸を持ち上げた瞬間「ピカー・ドーン」。その瞬間「アァ!死ぬんだ」と思う間もなく気を失った。7歳であった。これまでの人生で最も死の世界に近付いた瞬間であった。核爆発の強烈な衝撃波、続く爆風によって、爆心地から2km離れた我が家も倒壊し、私だけ柱の下敷きになり右胸部打撲、急性肋膜炎で呼吸困難、外傷により血だらけで瀕死の状態であった。両親と兄は軽傷で脱出、家は私を助け出した直後に出火焼失。皆で市内の母の実家へ向かった。途中、晴天であった空が一天にわかに掻き曇り、きのこ雲によって高空に巻き上げられた死の灰とともに重油のような黒い雨が降り出し、ずぶ濡れになった。南観音町の母の実家は、倒壊は免れたがかなりのダメージ。そこは母方の祖父と伯父の家であったが、祖父は日露戦争に従軍した退役陸軍大佐にも拘らず60歳で部隊長としてビルマ戦線へ。伯父は海軍兵学校へ。その留守宅には祖父の後妻と2人の叔母が住んでいたので同居することになった。父は被爆翌日から親戚縁者の安否を尋ねて爆心地付近を連日歩き回った。私の急性肋膜炎その他の傷は次第に回復に向かってはいたが、寝たきりであったため、熱線で全身焼けただれ、水ください!と言いながら死んでいくリアルな被災者の凄惨な姿を直接目にすることはなかった。しかし、歩くことができるようになって焦土と化した街を歩いていると焼け焦げて死んでいった人の遺体から発すると思われる異様な匂いがし、雨上がりの夜には青白い人魂と思しき燐光がポーッ!と真っ暗な地面からたち昇るのを見た。やがて肋膜炎は回復し一応日常生活はできるようになったが、ある日、頭を触るたびに髪の毛がばらばら抜け落ちるのにギョッ!とした。同時に強い倦怠感と紫斑(皮下出血)そして血性下痢で苦しんだ。黒い雨による放射能障害であろう。しかし、医療機関による診察、治療は一度も受ける機会はなかった。何とか回復した後も20歳頃迄強い倦怠感と皮膚の紫斑は続いた。顔は常に青白く貧血で、“青びょうたん”というあだ名をつけられた。
8月15日終戦。その10日後、父は重度の放射能障害で腹膜炎を起こしてひどい苦しみ様。市内は見渡す限りの焼け野原。連れて行く病院もない。
母がひと伝手にやっと見つけた、20km離れた廿日市の病院へ。乗り物などないので、同じ被災者でありながら近所の農家の人たちが親切にも大八車に乗せて運び込んでくださったが着いた時に父はすでにこと切れていた。42歳であった。いま私が味わっている老いの苦しみは免れたが。
1946年に伯父夫婦が、1948年に祖父が戦地から復員し8人が同居することになった。私が最年少。居候として気兼ねの日々、寂しく貧しい幼少年時代。伯父は、GHQの指令で公職追放になったがやがて解除されて女子大学の教授に就任した。広島市は七つの川が流れ、瀬戸内海に面しているため干潮時には干潟でアサリやハマグリが誰でも採れ、ハゼやチヌなど魚も釣れた。戦後の復興そして高度経済成長期に入る頃から川は汚染されて遊泳禁止、魚介類は食べることはできなくなった。田畑や空き地は宅地化され、小川はコンクリートで覆われ、道路は舗装され都市化が急速に進んだ。その結果、トンボや蝶など昆虫、小鳥、鮒やメダカなど生き物たちは姿を消していった。皮肉にも、原爆でも殺せなかった多様な生き物たちが経済発展によって消滅していったことに、被爆数十年後に気が付いた。科学・技術の進歩と経済成長が生物多様性と生態系をいかに破壊するか身をもって体験した。“沈黙の春”。
2009年(71歳)に大腸がんを発症、厚生大臣認定原爆症に認定された。手術により回復したが2011年再発、手術は成功し現在に至る。
最後に、被爆者の一人として言いたい。多くの無抵抗の非戦闘員を無差別に大量殺戮する核兵器の使用は国際法でも戦争犯罪であることは明白である。核兵器のボタンを押すことができる指導者は米ソ冷戦まではワシントンとモスクワの2人だけだったが今や9人になり、2024年1月23日時点で終末時計の針は歴史上最も進み9分になった。ウクライナ、パレスチナの戦争によってさらに進んだであろう。
