新宿区
戦争体験記
孫たちへの証言 東京大空襲 ~新宿が地獄になった5月25日~
佐久間さんは新宿区出身で、新宿区平和派遣の会所属、令和5年度末まで新宿区平和の語り部として区内の小・中学校での戦争体験講話を行っていただきました。
2017(平成29)年に東京都平和の日記念式典に来賓として参加するほか、2018(平成30)年度に新宿区が作成した「新宿区戦争体験継承DVD」へ出演するなど、自らの戦争体験を積極的に語り、平和と命の大切さを後世に伝える活動に取り組まれています。
この体験談は、令和4年9月4日に講話していただいた内容の一部です。
はじめに
佐久間國三郎です。北新宿三丁目で生まれ育ちました。現在93歳です。新宿区の代表として長崎へ平和派遣に行かれた皆様、現地で原爆について学ぶなど、たくさんの経験をなされたと思います。本日は私が子どもの頃に受けた空襲体験を聴いていただければと存じます。1945(昭和20)年5月25日の1日、24時間に、この新宿のまちで起こったことをお話ししたいと思います。
家族構成
私は10名の大家族の三男でした。私は空襲当時15歳、戦闘機の部品を作る工場で少年工として働いていました。兄二人は兵隊に行っていました。長男は20歳で大日本帝国陸軍に所属し、満州の関東軍に派兵されていました。次男は18歳で大日本帝国海軍に自ら志願し、横須賀におりました。また、四男の弟と三女の妹2名は学童集団疎開で群馬県草津市に疎開していました。自宅には共に心臓を患っていた49歳の父と46歳の母のほか、15歳の長女、5歳の次女、2歳の五男、私の計6人がおりました。
当時、私の自宅は淀橋区柏木4丁目(現在の北新宿3丁目)にありました。1945(昭和20)年4月13日の空襲において、淀橋区柏木5丁目(現在の北新宿4丁目)一帯は焼夷弾の爆撃により焼け野原となりましたが、中央線・総武線の高架線が防火壁となり、我が家までは火の手が回っていなかったのです。
B29の偵察
1945(昭和20)年5月25日、朝8時30分に警戒警報が発令されました。私は見張り役として家から外に出て大空を見上げました。雲一つない青空を4機のB29が飛行機雲を従えて飛んでいることを確認しました。このB29は偵察に来ていたのですね。
当時の日本陸軍の高射砲の性能は世界一優秀だと聞いていましたが、射程距離は9,000メートルです。高度10,000メートルの上空を飛んでいるB29には届かないのです。陸軍航空隊の隼戦闘機、飛燕戦闘機、海軍航空隊の零戦であってもB29の高度には到達できない。高射砲も戦闘機も通用しないのです。もう、あがったりですね。
B29は悠々と偵察を終え去っていきました。私はB29に向かって「コンチクショー!バカヤロウ!バカヤロウ!」と悪態をつきました。
その後、家の中に入った私は家族6人で話し合いました。今、B29が偵察に来たのだから、今日の夜は99.9%空襲が来るだろう。みんなで頑張るぞと話をしました。
どうすることもできない
夕飯の時間になり、丸いちゃぶ台に茶碗が6個置かれました。箸はありません。わずかなご飯を重湯にして食べました。
「兵隊さん、いただきます!」
と声をかけいただき、食事を終えました。家族が集まり、女性はもんぺを履き、防空頭巾を被りました。男性は鉄兜をかぶりました。
あと数時間後には自分の体一つだけになり、目に入る物全てが無くなることがわかっていました。しかしどうすることもできない、この悔しいというか虚しいという気持ちは体験しないとわからないと思います。今でも忘れられません。
その後、父親が全ての布団を6畳と4畳半の部屋に出せと指示し、「今夜は徹夜になるからここに横になり体を休めなさい」と言いました。
家族全員で川の字になりゴロゴロと身体を横にしていましたが、しばらくすると、弟と妹がバタバタと布団の上を運動会のように走り始めました。すると、父親が「あんまりはしゃぐと腹が減るぞ」と弟と妹に向かって言ったのですね。私は「この2~3年、腹いっぱいに食べていない。口に入れるものもない。不思議なことを言うなぁ」と思ったことを覚えています。
夜8時頃、警戒警報のサイレンが鳴りました。警戒警報のサイレンは1本で長い「ウ~」という音。空襲警報は複数回に切れながら「ウーウーウー」と不気味に鳴るのです。そして深夜、ついに空襲警報のサイレンが鳴り始めました。
空襲
「来たぞ!市場に逃げるぞ!」と声を掛け、家族一斉に家を飛び出しました。淀橋市場まで逃げるのです。妹2人は手をつなぎ、私は2歳の弟を背負ってマントをかけ、両手で両親の手を取っていました。家を出たら既にB29の焼夷弾の爆撃が始まっていました。バラバラと焼夷弾が撒かれ、まるで花火のように火が上がり、新宿駅や大久保駅の方角は空が真っ赤になっていました。シャー、バリバリバリ、ドンドンドンという音がする中、「いち・に!いち・に!」と声を掛け淀橋市場に向かいました。途中で建物疎開によって壊してある建物の瓦礫の上を歩き、「足元に気をつけろ」と声をかけました。
そして総武線大久保駅の近くにある鎧ガードまで来ました。淀橋市場まではあと少しの距離だったのですが、ここで父が歩けなくなりました。高架下に神田川に流れるドブがあり、ふと見るとドブの入り口のフタが開いていました。先に誰かが入っていたのでしょうね。「ここなら安全だ」と、私たち6人もドブに入りました。
束の間、鎧神社の木々がバリバリと音を立て燃えているのが見えました。10メートルほどの距離しかありません。火の粉が舞ってきています。また、日本軍の施設から高射砲や機関砲が撃たれ、頭の上を飛んでいくのも見えます。また、高架上には電車が止まっていて燃えています。弟と妹は「怖い!怖い!死ぬ!死ぬ!」と叫んでいます。しかし逃げ場もないからどうにもならない。この悲惨な光景を忘れてはいけないと頭を叩きました。
しばらくしてドブの中にも煙が充満してきました。ここは危険だということで、改めて淀橋市場へ避難しようとドブから出ました。両親も荷物のようにドブから引きずり出しました。
B29は這うように飛行しており、機体の「USA」という文字がはっきり見えました。そして淀橋市場に辿り着きました。淀橋市場は4月13日の空襲で燃えており工事中になっていたのですが、入り口の穴が数カ所あいていました。市場の中は満員で、私たちはドブの中にいたため出遅れてしまっていたのですが、強引に中に入れてもらうことができました。
淀橋市場から外を見てみると、100メートルも離れてない位置でB29がバンバンバリバリと焼夷弾を落とすさまが見えました。大きなパノラマ映画を見ているようでした。
しばらくして周囲が真っ暗になり爆撃が終わりました。
夜が明けて
淀橋市場で夜を明かし、我が家に帰ることにしました。鎧ガードをくぐり、我が家のあった場所まで戻りましたが、まっ平らで何もない。360度見渡しても高架線以外には全て地平線でした。
新宿駅の方角を見てみました。伊勢丹と三越の建物が残骸となって立っているのが見えましたがそれ以外は何もない。
私の家があった場所は高台でした。西の方を見てみると富士山が見えました。私は富士山に向かって「おーい!一日も早く戦争をやめてくれ!戦争をやめてくれ!」と叫んだんです。
その後は安堵感というのですかね。人間というのは不思議なものですね。今晩寝るところもないんです。だけど空襲が終わったという安堵感を感じていたのです。
語り部としての使命
私の戦争体験講話で最後に必ず言うメッセージです。今年で戦後77年を迎えます。もう二度と悲惨な戦争を繰り返してはならない。また決して忘れてはいけない。これからの日本の平和・世界の平和・いのちの大切さを後世に伝えていくのが、私たち戦争体験者の使命だと思っています。