日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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佐倉市

戦争体験記

戦争体験 

藤崎 美知 氏

私は 、現在国立歴史民俗博物館のある、近くの町内で生まれました 。戦前、軍隊があり、掘を境に軍隊の土地とつづいている実家でした 。物心がつく頃は、起床ラッパで目をさまし、丘の上から聞こえる軍歌をリズムでの生活。夜は就寝ラッパで眠りにつく一日でした 。昭和十年頃の幼い頃は、軍人にあこがれ 、大きくなったら軍人将校さんと結婚するのが夢でした 。軍服姿に雄々しい姿、馬にのり当番兵をつけて町内を歩く姿にあこがれ、贅沢この上もない生活に、うらやましい位でした。軍隊生活は、実家が明治四十一年歩兵第57連隊が佐倉に 誕生して三代つづく御用商人であったので、すべて知りつくしていました。
 昭和十三年 、支那事変が勃発すると、佐倉連隊は動員邸隊となり、予備兵の人たちが招集で毎日のように入隊し、訓練を受けては佐倉国鉄より歓呼の声に送られて出陣していくのです。その都度、日の丸を振って送ったものです。中でも動員部隊として、当時の房総健児なら知らない人はいないでしょう。かの有名な福井部隊、山口部隊です。上海上陸、南京占領と、勝戦勝利のニュースで町内は沸き立つ程で 、昼は旗行列、夜は提灯行列で、それは賑やかでした。又、軍隊には、芸能人の慰問団が慰問に来ました。私も何度か軍人さんの家族と招待され、今、心に残る一番の思い出は、歌手の、戦前一世を風靡した、小唄勝太郎、美ち奴、小梅、音丸、二葉あき子等々のなつかしい歌声です。しかし、そんな時代も長くつづかず戦況は悪化し、国内は戦時体制になり、砂糖、清酒、木炭等々が公定価格制になり、米の配給物価統制と、国民生活は次第に苦しくなり、ヨーロッパの風雲も急を告げ、昭和十四年には第二次大戦に入り、勇ましく出陣していった兵士たちが傷衣軍人となって、白衣をきて肩から腕を吊り、又松葉杖を頼りに、汽車から降りて来る姿にただただご苦労様の一言でした。
当時佐倉には、陸軍病院があって、折をみて制服姿でグループ毎に千羽鶴や押花をもって慰問にいきました。四十歳すぎの私たちのお父さんの年の人もおりました。痛々しい姿で、とても喜んで、今も当時を思い出します。まだ命あって帰ってきた人は幸せです。もっともっと悲しいことは、万歳の声に送られ「いって来るぞ」と元気で声を限りに叫び、小旗をふって、お国のためとはいえ、笑顔で別れた勇士の皆さん。あの佐倉駅の汽車がみえなくなるまで力一杯手をふって送った皆さんが、戦友に抱かれて小さな白い箱に入って無言の凱旋。命を国に捧げ、汽車から一人一人降りて来る姿。もう胸一杯でした。少女時代のこと、声を偲ばせて泣いて、何度迎えたことでしょう。そして軍隊の奉安所まで、悲しい音楽に合わせてお送りしたものです。今でも当時のことが、私の頭に蘇って来ます。
その中、大東亜戦争勃発。忘れもしません。昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃。戦艦や航空機の破壊に成功のニュースがラジオで放送。南方方面も、戦勝、成功のニュース。それも次第に悪化し、思いもかけぬB29の本土空襲を受けたのです。そして国民生活は日一日と苦しくなるばかり、衣食共に切符制になり、一日の主食の配給は飢えを凌ぐのがやっとです。又、若い男性は召集され、女性は軍需工場に徴用され、幸いに私は町内の銀行に勤めることが出来、母の着物で上衣とモンペを作り、防空頭巾と非常袋を手作り、肩にかけ下駄ばきです。日中は交替で、勤務のかたわら空襲に備えバケツリレー。米軍上陸に備えてやりつき の練習です。
その中に空襲もはげしくなり、その毎に営業は休業になり、夜は警戒警報が出るとラジオで情報を聞き、千葉県に上陸すると職場にかけつけ、途中空襲になりますと夢中でした。東京に爆撃して、銚子沖洋上に去るB29の爆音を聞き、今でもあのB29の音の恐ろしさが耳に残ります。解除になると、時には真夜中の二時か三時です。食料難です。夜はすいとんをすすり、帰る頃はお腹がすいてふらふらでした。 一人兄妹の兄が出征し、親子三人朝は麦とお米少々のごはんを食べ 、私がお弁当にもっていく、両親は昼はおいもを食べ、夜は朝の残りに野菜を入れ、おかゆ又はすいとんです。「勝つまではがんばりましょう」の合言葉で耐えました 。幸いに、勤め先の前が大きなパン屋さんで、配給のパンを分けてくれるのが唯一の楽しみでした。
 昭和十九年、二十年は、空襲がはげしく、今、私の心に残る一番忘れないのは、多分日曜日でした。空襲警報が発令するや、航空母艦から飛び立つ艦載機が、軍隊を低空で空襲です。屋根すれすれに物すごい爆音で、その中に機上射撃です。防空ごうに入る間もありません。母と二人で、ふとんの押入れに抱き合ってもぐり込みました。ただ夢中で、恐ろしさのみでした。解除になって外に出てびっくり、お風呂の屋根が穴だらけ、中に鉄砲のたまがおちているのです。流れ玉です。ほんとうに命拾いをしました。
軍隊では多数の死者負傷者が出ました。もう一つは、昭和二十年三月九日の夜の東京下町の空襲です。防空ごうの外から見る印旛沼方面は、火の海です。空は真っ赤に明るく、空から焼夷弾を落とす毎に火の手が上がるのです。忘れられない恐怖の一つです。
 昭和二十年になると、外地にいった人たちの音信はほとんどなく、私の主人も航空隊でラバウルで三年以上も音信不通でした。その間、お米はなく、おいもが主食で、ヘビ、トカゲと口に入るものは何でも食べて飢を凌いだそうです。
そうして終戦を迎え、先ず空襲がないこと。戦争中は、夜の明かりは空襲に備え 、はだか電球一つに黒いカバーをかぶせて、ローソク程度の明るさです。その夜の電気の明るさ、まぶしくて今でも忘れられません。
佐倉連隊は 、昭和十一年に二・二六事件で反乱軍の鎮圧に協力しました。大雪の降る日でした 。戒厳令がしかれ、物々しい姿で出発していく姿を今も心に のこっています。昭和十二年には渡満し、チチハル、孫呉に警備につき、又、第五十七連隊が母体ともいう福井部隊の上海上陸。多くの勝戦をとどろかせ、渡満した部隊は日華事変拡大のため、北支に応急派兵、武勲を輝かせ。しかし戦局が傾いた昭和十九年には、南方に派遣され、全滅同様の悲運に遭遇、レイテ島上陸した時には、圧倒的優勢を誇る米軍に対し、食料、弾薬欠乏の日本軍は、死力をつくして戦ったが力及ばず。残兵百人足らずということで、同地で終戦を迎えたそうです。八月二十七日、軍旗を奉焼、第57連隊の幕を閉じたそうです。佐倉連隊は、いかに精強であったかは、だれも否定できないでしょう。この最後は、第57連隊の職業軍人であった長老のかたから聞いたのです。
私の青春は、軍隊と共に生きてきたと思います。この話を聞いて、感無量といいましょうか、一抹の淋しさ悲しさが今も忘れることが出来ません。縁あって、今の主人と結婚し、三人の子に恵まれ、それぞれ独立し今年で結婚五十周年を迎えることが出来ました。これからの余生をお互いに助け合って、一日一日を大事に過ごしたいと思います。そして二度と戦争は子孫には経験させたくありません。平和な世の中が続きますよう、心より願ってやみません。

佐倉歩兵第57連隊軍歌

一.
武神の脊れいや高き
香取の宮を祈りつつ
清澄山の影慕い
忠敬の跡偲びつつ
義人の流れを身に汲める
房総健児の集まれる
我が連隊の意気高し
我が連隊の意気高し

二.
臥薪嘗胆戈とりて
悲憤征露の中つ頃
忝なくも大君の
授け賜いし軍旗をば
御影と仰ぎあがめつつ
股肱の任を尽くすこそ
房総男児の誉れなれ
房総男児の誉れなれ

三.
事なき折も平城と
五条の御訓畏みて
鍛え鍛えて撓みなく
朝日に匂う名もさくら
城頭響く喇叭の音
雄叫の声勇ましく
四方の眠や覚さなん
四方の眠や覚さなん

引用元:佐倉市「語り継ぐ記憶 平和祈念・戦争体験文集」p62~65