松戸市
戦争体験記
長崎被爆体験
大野 禮子氏
小学校5年生(10歳)の時に長崎市で被爆、原爆で兄を亡くされる。昭和38年7月27歳の頃に松戸市に転居したのち、札幌や博多等への転居を挟みながら、昭和44年7月以降は松戸市に居住。現在は平和語り部として、ご自身の体験を基に戦争の悲惨さや平和の尊さを後世に語り継ぐ活動をされています。
【体験記】
1945(昭和20)年8月9日。
その日は、澄み切った青空で蝉がジージーと鳴いていました。ラジオから「敵の飛行機B29、天草から西北進、長崎に向かいました」と聞こえてきて、『ピカーッ!』と光った途端『ガタガタガタガタ、ドッシャーンガッチャンガッチャンチャリンチャリン、バリンバリン、ゴォーーーッ、ゴォーーーッ!』と何とも言えない音がとどろきました。
私の一番上のお兄ちゃんは、中学2年生でした。
原爆が投下された日、お兄ちゃんは爆心地から500メートル離れた鎮西学院中学校に行っていましたが、帰って来ませんでした。
原爆が投下されて3日目を迎えても、帰って来なかったため、おじいちゃんと現在の長崎駅の方まで探しに行きました。
辺り一面灰と瓦礫の山で、真っ黒な骨組みだけ残った電車が見えました。みんな燃えてしまって、運転手さんは立ったまま、真っ黒な炭です。乗客も座ったまま、真っ黒な炭。目も鼻も口も髪の毛もわかりません。荷馬車の馬の目は飛び出していました。かろうじて生き残った人も水を求めて溢れかえっていました。用水路は死体の山で水もありませんでした。
目を背けたくなるような光景に、泣きながら家まで帰りました。
次の日、辺りが暗くなるとお兄ちゃんは突然帰って来ました。
お兄ちゃんは原爆がさく裂したとき、防空壕に飛びこんだそうです。しかし、昏睡状態になり6時間、土砂や瓦礫で生き埋めになり眠り込んでしまったところを、陸軍の兵隊に助けられ陸軍病院に運ばれたそうです。2日後に目が覚めると、怪我や火傷もなかったため、棒切れを杖にして3.2キロの山道を越えて家に帰って来たそうです。
しかし、次の日の朝、お兄ちゃんは起きてきません。
「頭が痛いから起きられんと」と言うので、熱を測ったところ、42度もありました。さらに舌は真っ白く煮えただれて、水も飲めない状態でした。
8月15日、終戦の日を迎えました。
「進駐軍が上陸してくるから、女子供は逃げなさい」と言われ、釣り船で24時間かけて、お母さんの妹が嫁いでいた五島列島にある網元の家に疎開しました。お兄ちゃんは、何も食べることができず、毎日寝ていることしかできませんでした。
ある日、『どばーっ!どばーっ!』
お兄ちゃんは、鼻と口から真っ黒の血の塊を吐き出しました。
傷一つなかったのに、防空壕で吸い込んだ放射性物質によって、内臓が腐っていたのです。
「僕はもう死ぬかもしれないね。みんなを呼んで来て」
みんなを呼んでくると、お兄ちゃんは家族一人ひとりに語り掛けました。
みんなでお祈りをして讃美歌を歌ってあげると、お兄ちゃんはにっこり笑って目を閉じました。しばらくしたらパッと目を開けて、
「母ちゃん、お水ちょうだい」
吸い飲みいっぱいにあげると、ごくごく飲んで全部飲み干しました。
「おいしかった、ありがとう。今ね、白い着物を着たイエス様が僕を迎えに来てくれたんだよ。きれいな花が咲いていて、かわいい天使がいっぱい飛んでいて、きれいな音楽が聞こえてきた。きっと僕は天国に行けるんだよ」
そして、にっこり笑って静かに静かに天国に旅立ちました。
森下次幸。15日間何も食べていませんでした。食べられませんでした。生きていたというより、生かされていた感じでした。亡くなった時には髪の毛は1本もありませんでした。そして体中には小豆大の紫斑点ができ、胸のあばら骨は標本室にある骸骨そのものでした。
このような体験を通して、皆さんに伝えたいことがあります。二度と再び原爆を落としてはいけません。二度と再び戦争を起こしてはなりません。二度と再び核兵器を使ってはいけません。核兵器の一番怖いところは、最後まで意識がなくならないということです。意識がなくならないということは、痛い、つらい、悲しい、悔しい、死にたくないなどの気持ちは感じるということです。お兄ちゃんはどんなに辛かっただろうか。でも、それをみじんも見せずに、にっこり笑って逝きました。
戦争の悲惨さ、平和がどんなに尊いことか。このことをいつまでも、いつまでも忘れることがないよう語り継いでいってください。