富士見市
戦争体験記
戦時中の思い出いくつか
(プロフィール)
1934年生まれ。富士見市出身。現役時代は地元で印刷業を営む。現在もバンド活動を行い、地域のイベントなどで演奏を披露するほか、鶴瀬西交流センターだより編集委員など地域に貢献している。
昭和十六年に第二次世界大戦がはじまり、いろいろな経験をしましたが、小学校時代の大東亜戦争時の思い出は特に強烈に残っています。軍国教育という事なのでしょうが、何かと言えば先生のゲンコツが飛んできたり、ある先生は馬の鞭(むち)をもち、振り下ろすこともありました。その鞭が顔の前をぴゅっと走ると、棒の先に付いている皮の帯がぴしっと顔をたたき、その痛さはそれは大変なものでした。こんな体罰みたいなことは現在では大問題でしょう。
戦況が変わり静かだった鶴瀬村は出征兵士をおくることや、その家庭の救援やらで、小学生達もかりだされ、周囲があわただしくなっていきました。小学生にできることは農作業のお手伝いが主でしたが、勉強そっちのけで連日手伝わされたこともあり、学校では防空壕掘りや軍事訓練も加わり銃後の守りという教育でしたのでみんな一生懸命頑張りました。
昭和十九年以後になると、B29による本土空襲が頻繁にありこの地区も爆弾の投下を受け大きな被害をうけました。
ある時、近くの農家の庭でこの部隊が主催する映画の会が催されました。庭いっぱいにむしろを敷いて、竹の棒につるされた風にゆらゆら動く白布に映る映像を村人が楽しんだ風景も記憶にあります。私がその時、兵隊に連れられた軍用犬に尻をかみつかれ手当されたこともありました。その後、その兵隊は伝令隊の一人だったのかサイドカーに乗って颯爽と走っているのに逢いました。「藤井軍曹」でした。もしかしたら彼の家には私と同じくらいの子どもがいたのかもしれません。
さて、今、思えば学校で受けた、軍事訓練は昔のサムライ時代の地上戦でのもので、空からの襲来に竹やりで立ち向かうのなんて変でした。
そんなことより参ったのは食べるものが欠乏したことでした。とにかく農村でありながら全部供出させられて手元には残らなかったんです。まだ実らない果実や野草を毎日食べました。
戦後の教育も変わり教科書墨塗りのことなど今では考えられない経験もしました。とにかく大変な時代でした。