北本市
戦争体験記
満州での体験と初めて見る日本
浅野 卓(あさの たかし)さん
昭和9年に中国大連市で生まれる。5歳の時に父の転勤で牡丹江市に移住。
平成23年頃から、北本市内の小学6年生、中学3年生を対象に「語り部」として講演を始め、鴻巣市や蓮田市、埼玉県などから依頼を受けて講演を行っている。
満州での体験と初めて見る日本
私は満洲国の大連市で生まれ、5歳のとき満鉄(南満州鉄道)に勤務している父の転勤で牡丹江市に移住しました。
昭和16年4月に私は国民小学校に入学、その年の12月8日に、太平洋戦争が勃発しました。牡丹江市は日本軍の前線基地のため、いくつかある軍事施設が米軍の標的となり、度々の空爆で破壊されました。警報のサイレンが鳴ると防空壕に避難することが度々ありました。戦争が始まると国内の状況が一変しました。軍部の権威が高まり、国民が何か不満をもって軍部に向かって反発したり、抵抗したりすると、非国民だと言われ連行されたり、逮捕されたりしました。
私が小学4年生のときは、午前中は授業を行ない、午後は勤労奉仕の時間で離れた所にある畑で仕事を行ない、夕方学校へ戻る途中、生徒全員で軍歌の「若鷲の歌」を3番まで歌いながら帰校しました。
週に何回かは、ゲートルを巻き校内、校外で行軍を行ない、授業で銃剣術の訓練があるときは声を出して真剣に行なっていました。戦時中は、軍の兵士が数人、小学校の先生として派遣されていました。授業中、生徒の方に問題が発生すると全員が責任をとらされ、革のスリッパで一人ずつ殴られました。
戦時中の美術の授業で絵の時間は、殆ど軍艦、飛行機、戦車、潜水艦、騎兵隊などを描いていました。
満州国は、周辺の国とは陸続きで、時々どこかで小規模な戦いが起きていました。特に北方のソ連は脅威の国でした。
敗色の陰りが濃くなってきた昭和20年8月10日頃、満鉄は、ソ連の動きに危機を感じ、社員家族に突然避難命令を出しました。私達家族4人は、リュックを一つずつ背負い、屋根のない貨物列車に乗り込みました。父は現場の仕事に行ったまま行方不明になりました。列車は、北方が危険なため、南へと走り続けました。列車の中でラジオから天皇陛下の玉音放送を聞き、日本が戦争に敗れたことを知りました。
列車がある駅に停車中、ホームに現地兵土などが現れ、列車内に乗り込んで来て、車内にいた満鉄社員の家族の若い女性を数人捕まえ車外に連れ出しました。満鉄社員がそれを見て「何をするのだ」と止めに入りましたが、兵士達はいくつかの言葉を発して社員達を蹴飛ばし、ホームから連れ去ってしまいました。目の前でその状況を見ていた子供の私は、余りの驚きの瞬間に声も出せませんでした。
その後、列車は2日間走り続けて南の町撫順市(炭鉱の町)に辿り着きました。撫順市では、満鉄の寮に住むことになりました。何日か経った時、寮の前の道路で?介石の「国府軍」と毛沢東が指揮する「八路軍」が正面から激突し、銃の打ち合いが数分間続き、その流れ弾が私達の住む寮の屋上まで飛んで来たのには驚きました。何が原因で競り合いが起きたのかは分かりません。
私達家族4人はなんとかこの寮で生活することになりました。しかし、未だ父は行方不明で収入がないので、これから生きていくには何かしなければと、私(11歳)と弟(9歳)は撫順炭鉱へ毎日コークスを拾いに出かけました。リュックに拾い集めたコークスを入れて自宅に持ち帰り、母が地元の市場で売り、その金でパンや豆腐、コーリャンなどを買いました。毎日の食事は、寮の小さな食堂で食べることはできました。
また、毎日兄弟で小麦粉倉庫に忍び込み、小麦粉をリュックの中に入れ家に持ち帰り、母が地元の市場で売りその金で食料品を買っていました。
敗戦になり学校にも行けず1年間勉強することもなく、働くことだけ考えて家族は生きてきました。ある日突然、行方不明の父が現れたときは驚きました。母は、父だとすぐわかり言葉を交わしていましたが、私と弟は髭がぼうぼうで人相の悪い人を自分達の本当の父親とは信じられず、前の状態に戻るまで約1ヶ月はかかりました。寮の中では発疹チフスが流行し、幼子や老人が亡くなっていました。
終戦後は、中国政府の管理下の中で生活していましたが、戦前の日本と違い治安状況は余り良くなく、特に夜の一人歩きは物騒な状況でした。
撫順市に避難して1年間どん底生活を体験していましたが、いよいよ日本に帰る日が決まり、中国の葫芦島の港から大型引揚船に乗り京都府の舞鶴港へ向かいました。乗船中、発疹チフスが流行し、幼子が多く亡くなりました。船内では遺体を保管できず、親が無念の思いで亡くなった我が子を海中へ投入する姿を目の前で見た私は、大変辛い思いを抱きました。
船内で張り詰めた空気が漂う中、誰かが甲板で日本の民謡「江差追分」を尺八で奏でられ、流れてくる音色とちょうど月の光が海に差し込んだ情景が映り、心に染みる想いは忘れられません。
1か月の航海の末、無事に京都府舞鶴港に入港しました。港の桟橋に立った私は、生まれて初めて祖国日本の風景を見ることができて、これからの人生に感動と夢を感じたことを未だ忘れていません。
港に着いて、市の係の人から家族全員の体中にDDT(有機塩素系殺虫剤)を散布されました。その後、入国手続を終えて国の引揚者の宿泊施設に3日ほど泊った記憶があります。
そしていよいよ、父の実家がある東京都北区の赤羽を目指して出発しました。京都駅から列車に乗り、品川からは電車に乗り換え、途中上野駅で下車、父は私達には駅内を説明せず、真っ直ぐ地下道に案内、そこでは傷病軍人の人達があふれ、物乞いをする姿を目にしました。その近くに遺体が放置されていました。終戦して1年が経過してもなお戦争の傷跡が生々しく残っている現実の姿を見て、子供ながらにショックを感じ、暫くの間はその情景が消えませんでした。
その後、初めて父の実家に辿り着き、父の両親や兄弟姉妹と会い挨拶を交わし、ここから私(12歳)の長い人生が始まったのです。