行田市
戦争体験記
私が生きた戦争の時代 -軍国少年の日記帳-
人物紹介
1929年(昭和4年)生まれ。市立中学校、県立高校の社会科教諭を経て、1994年より英国ウェールズのアトランティックカレッジで日本語を教える。帰国後は、市民大学の講師や戦争体験の語り部など文化活動を行って今日に至る。
古い物置を壊した時、放置されていた本箱から古い日記帳が10冊ほど出てきました。私が15歳から16歳にかけて、旧制中学卒業前後に記したものです。
私は昭和4(1929)年、旧忍町の忍城址に程近いところで生まれました。昭和初期のその頃は、五・一五事件(昭和7年)、二・二六事件(昭和11年)等を経て、日本が戦争への道をまっしぐらに進んでいった時代であり、昭和10(1935)年に入学した忍町尋常高等小学校尋常科で使用した国定教科書、いわゆる「サクラ読本」には、初めの方のページに、銃を担いで行進する兵隊の絵とともに「ススメ ススメ ヘイタイススメ」とあったのを、今でも鮮やかに記憶しています。
このように皇民化教育、軍国主義の教育を受けて育ち、昭和16(1941)年4月に埼玉県立熊谷中学校(現熊谷高校)に入学しました。私たちは小倉(綿織物の名称)の詰襟の制服に憧れていましたが、この年から制服は当時「国防色」と呼ばれたカーキ色の開襟となり、制帽は兵士のかぶる「戦闘帽」に変わりました。登下校時には、編上靴とゲートル(巻き脚絆)着用が義務付けられて、脚絆の巻き方が悪いと、校門に立つ帯剣して銃を持った5年生の全校週番に、その場で巻き直しを命じられました。中学では普通の教科とは別に、全学年に教練と言う科目があり、配属将校である現役の陸軍中尉のほか、予備役・後備役の教員が指導に当たりました。教科書は陸軍の歩兵操典を範としたものを使用していました。同年12月に対米英戦争が開戦となると、いよいよ世は戦争一色となり、私たちの身辺も次第に戦時色の影が濃いものとなりました。「国のため天皇陛下の御為に命を捧げる」のは「悠久の大義に生きる」ことであると、死は美化して語られる時代でした。
戦局が日増しに不利となっていく昭和19(1944)年11月、私たちは勤労動員のため学校を離れ、分散して各地の軍需工場等で働くことになりました。私は富士電機吹上工場に配属され、基台と呼ばれる電波探知機の回転台を組み立てる作業に従事しました。年が明けると、前年米軍の手に落ちたマリアナ基地を発進するB29の本土爆撃が激しくなり、3月の卒業式における校長の式辞は「諸子よ覚悟はよいか!」と戦場に向かう兵士に対する檄文のような言葉でした。
4月、米軍は沖縄に上陸し、5月にドイツが降伏。連合軍が全戦力を日本の攻撃に集中しようという時になっても、日本の降伏などあり得ないと考えていたのは、軍国少年の私だけではなかったのです。しかし、首都東京をはじめ大中都市は焼夷弾に焼き尽くされ、日本近海を遊弋(よく)するアメリカの空母から、戦闘機が行田の空を乱舞するまでになりました。8月、広島・長崎に「新型爆弾」が投下され、ソ連が参戦、そして8月14日の深夜、B29は我が家の上空にも飛来しました。幸い被災は免れましたが、焼夷弾落下の際のザーッという夕立のような音は今に忘れられません。一晩中、熊谷の空は血のように赤かった。一睡もできず夜が明けた8月15日、爆音の消えた夏の日の正午、「玉音放送」は私に決定的な痛撃を与えました。悲憤慷慨するその気持ちを、16歳の私は日記に叩きつけたのだと思います。
8月15日(水曜)晴
昭和20年8月15日。噫!噫!此の日を吾等永遠に忘るるべからず。来るべからざる且亦夢だに想像し得ざりし事実は現實の姿となりて吾人の前に迫り来れり。(中略)聖断遂に下る。承詔必謹、吾等大御心を奉戴し努めむとして務め得ず果さむとして果し得ざりし此の大罪を深く深くお詫び申し上ぐべし。嗚呼!大東亜戦争遂に終了す。一億の歓喜と万歳と栄光と名誉と笑顔に終了せむ事を夢に見つつ勝利を目ざして進みし吾等の眼前にその終了は余りにも悲痛に現実としてあらはれたり。嗚咽慟哭止むる処を知らず滂沱の涙禁ずる能はず。又陛下の御軫念の程拝察するだに新なる感涙に只只歔欷するのみ。
実はその9日後、私は朝霞にある陸軍予科士官学校に入学予定でした。日本の敗戦と自身の夢の消失と、この二重の挫折に、思春期の少年はただ茫然と我を忘れるほかありませんでした。痛みからの回復には時間が必要でした。その苦しみの中で私が見たものは、今まで捻じ曲げられベールに覆われていたものの真実の姿でした。勝った勝ったと報じていた大本営発表は偽りで、戦艦大和も武蔵も海の底に沈んでいた。神風なぞ吹きはしなかった。信じていた全てに裏切られた思いは切なかったけれど、一方で徐々に夢から覚めたような思いもありました。
戦後70余年を経た今思えば、戦争の狂気と戦後の平和と、二つの相反する時代を生きたことは必ずしも無駄ではありませんでした。今だからこそ、戦争の時代に生きた自分とその背景を冷静に見つめ直すことが出来るからです。
今、私たち世代の為すべきことは、次の世代に戦争の時代の真実を語り継ぐことだと思います。偏狭で排他的な風潮に流されず、真実を見つめる確かな目を養ってもらうために。