日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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高崎市

戦争体験記

父の出征と疎開生活

須賀 宏江 氏

私は、神奈川県の横浜市で生まれ、両親と3人で幸せに暮らしており、父は外国との貿易関係の会社に勤めておりました。昭和16年9月、私が6歳のとき、父が突然違う姿で会社から帰って来たのです。髪型が丸坊主になり、手に召集令状(赤紙)を持っていて、3日後には入隊するとのことでした。この頃は人々がお国のためだと何の抵抗もなく承諾したものでした。
昭和16年5月頃までは、町内で国防婦人会というものがあり、出征兵士を婦人会の人達が肩から斜めにタスキをかけ、「バンザイ、バンザイ」と見送っていました。婦人会の人達は、兵隊さん方に慰問袋(千人針、日の丸の寄せ書き)を作って持って行ってもらいました。兵隊さん方は千人針や日の丸の旗を肌身離さずお守りとして持っていたそうです。
それから4か月後(昭和16年9月)の父の出征には、事情が変わって見送りなし、ひっそりと小荷物1つ持ち家族(母と私)で駅まで行き、手を振って別れたのが今思うと父の姿を見た最後でした。父は出生地(群馬県)の高崎の15連隊に入隊しました。その後、面会などは全くありませんでした。入隊後は3か月ほど軍事訓練をして、外地などへ派遣されたようです。
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まりました。(父が出征して3か月後) ハワイの真珠湾攻撃によって開戦し、日本軍が優勢だったのが、その後ミッドウェー、ガダルカナル、硫黄島などで戦いましたが日本軍は致命的な攻撃を受け負け戦で、その結果、本土空襲が始まり敵機(B29)が襲い掛かって来ました。
父が入隊してしばらくたってから、シンガポールから一通の軍事郵便が届きました。父の写真のハガキで、椰子の木の陰で銃を立てかけ穏やかな顔の姿でした。家族の安否と父は元気で頑張っている(英語ができたため通訳をしている)とか、母と手を取り合って喜んだことは忘れられません。
その後、5~6通シンガポールからハガキが届き、厳しい検閲があるので内容は私たちの安否と頑張っているとのことのみでした。その後しばらく手紙は途絶え、母と心配はしていたのですが、昭和18年頃一通の手紙がニューギニアから届きました。たぶんこの頃は戦局も厳しく、国内外も大変な時で、その後はもう何の便りもなく不安な日々でした。
昭和17年、国民学校の1年生、昭和18年2年生とこの頃は男性の先生方に召集があって出征していき、学校は先生が不足して授業もままならず、二部(午前・午後)に分かれて授業をしました。
しばしば空襲があり、警戒警報が鳴ると防空壕へ避難したり、授業もままならない毎日で、その頃の低学年は疎開することになりました。田舎のない人は長野県へ集団疎開でした。長野県へ疎開した友達から手紙をもらい、食糧もままならず夜になると家族が恋しくて泣いているとのことでした。私は母の実家が高崎なので、昭和19年の初めに疎開して、祖父母と一緒の生活でまだ長野県へ行った友達より幸せでした。
昭和19年4月、3年生。高崎の佐野国民学校へ転校しました。この年には東京、横浜方面から大勢の疎開児童が来て、クラスに10~15人くらい教室はぎっちりいっぱいでした。学校へは防空頭巾を離さず持参し、高崎でも時々警戒警報、空襲があり、防空壕へ逃げ込んだりすることもありました。
昭和19年の中頃には、高崎競馬場(現Gメッセ)に高射砲(飛行機を射撃するのに用いる)の陣地ができて、兵隊の宿舎として学校の校舎が使われました。
昭和20年4月、4年生。校舎が兵隊の宿舎となったため、授業ができず分散疎開といって各村にある寺、神社の社務所での勉強となり、防空頭巾、お膳(机の代わり)、リンゴ箱を持って学びましたが、警戒警報や空襲警報があるので防空壕へ出たり入ったりで勉強などほとんどできず、手旗信号(赤と白の旗)、モールス信号(ツート、トツー、ツートトト・ ・)を皆一生懸命に覚えました。
上級生(6年生、中、女学生、高等科)は学徒動員といって国内の労働力が不足して学生が勤労奉仕で毎日工場へ行き軍事製品を作ったり、女子は縫製工場で軍服などを作る作業をし、田舎の方では桑の木の皮を剥く作業をしてその皮を繊維の代わりに使用したようです。上級生たちは勉強など全くせずに働いていた状態で成績の評価をされたそうです。
ちょうどこの頃、家庭にある金物、鉄類、そして寺や神社などの鐘、仏具、刀などあらゆる金物類は供出を強いられ、武器を作る資源になったようです。
家庭では灯火管制(夜間敵機の来襲に備えて光が外に漏れないように消灯する) が敷かれ、電燈の笠に黒い布を被せました。
昭和20年8月14日、前橋方面の空襲の夜、B29が来襲して真っ赤な火の手が上がっていて、いよいよ高崎もやられるかと不安でした。というのは、我が家 (祖父母宅)は高崎競馬場の南側100mくらいの所(高射砲陣地より100mくらいの位置)にあるため、爆弾が落とされる可能性が高くとても恐ろしいことでした。素早く家族で家から南方面へ急いで夢中で逃げました。その間に探照灯(サーチライト)で飛行機を取り囲んだり、また飛行機から照明弾(空中で炸裂して強い光を発する装置の弾丸)が落とされ、辺りが一面夜なのに真昼のごとく明るく、人までも空中からわかるようで、見つかると焼夷弾(爆弾)で爆撃されるので急いで物陰に隠れたり、地面に伏したりしながら逃げました。上空には敵機が飛んでおり恐ろしく、知らない人の家の防空壕に逃げ込んだり、田舎のため竹藪があったのですがそこに爆弾が落ちると竹藪が火事になりそこに隠れていた人たちも逃げてまた他所の家の防空壕に隠れたりと、最後は4kmも離れた烏川の河原で夜を明かしました。その河原には町から逃れた大勢の人たちがいました。
朝、親戚の家に辿り着きほっとした矢先の8月15日、正午から重大発表がある、天皇陛下の放送があるとのことで母とラジオのある家に行き玉音放送を聞きました。無条件降伏、敗戦だったのです。残念、無念で皆泣きながら聞き入っていました。子供の私たちは『もう空襲はないのだ。B29の爆撃もないのだ。灯火管制もなくなり、昨日までの恐ろしい思いもしなくていいのだ・・』と心の中で思いほっとしました。
この頃、食糧難で農家へ買い出しに行く人も多く、衣類など物々交換で米類を分けてもらっていました。食料の配給も少なく、また米は特に少なく、サツマイモ、ジャガイモ、コーリアン、大豆など代用食で町の方の人たちは雑穀(野菜類を入れたおかゆ)を列を作って食べ漁ったそうです。
昭和20年、敗戦と同時に高射砲陣地で働いていた兵隊も引き上げて、二学期からは寺、神社から学校に戻ることができました。次第に東京方面からの疎開児童も家へと引き上げていき元通りのクラスに戻りましたが、私だけが横浜の家に帰ることができませんでした。それは父親に戦死の公報がきたからです。昭和20年6月15日に東部ニューギニア方面で戦病死と・・。母が援護局へ遺骨を引き取りに行きましたが、白木の箱があまりに軽いのでそっと開けてみたら中は空っぽでした。葬儀はしましたが、母も私も父の戦死を受け入れることはできず、ずーっと父の帰りを心の中で待っていました。
昭和21年、終戦後アメリカの進駐軍の支配のもと、色々な制度の改革(農地改革、婦人の地位向上、食糧事情の改善、日本の民主化等)がありました。その中の一つ、学区制で6.3.3制と国民学校→小学校→新制中学→高等学校と・・国内が食糧難のため、アメリカから色々な物資が届き学校給食が始まりました。
まず、脱脂粉乳のミルク、デンプンかすの入った不味いパン、缶詰を入れた汁など、子供心に決して美味しいとは言えず、不味かった記憶だけが残っています。教科書も上級生のお古を使ったりと満足なものではなく、新聞紙のように印刷されたものを折って自分で切って閉じて授業に使いました。所々黒く塗りつぶされている(都合の悪い部分なのか?)のも印象的でした。
昭和21年、22年以降、外地で戦没した人たちも多く、また生きて戦地から復員してくる人たちも続々と日本に到着しました。国内も次第に落ち着いてきて生活も経済も良くなってきて、復員してきた人たちで結婚や再婚した方も多く、戦後のベビーブームと言われたのが昭和24年、25年以降かと思われます。
戦後の復興も目覚ましく、国内も安定して昭和→平成へと移り、平成3年、8 年に私は父の戦没地ニューギニアへ慰霊巡拝に行く機会を得ました。長い間待ちに待っていた母もその3年前(平成元年)に亡くなり、母の想いを背負って父の眠る地、日本から600 kmも離れたニューギニア、高温多湿の熱帯地方で赤道直下であり世界の秘境と言われる地へ。なぜこんな地で戦争があったのか・・。島民は穏やかで親日感情はすこぶる良いです。果たして父らはここで戦ったのか・・それとも上陸もせずに病死か餓死か・・と全く解りませんが、捕虜になり収容されて生き残った人はほんの一割程度とか・・(帰還された兵士)
島内を巡拝しているとジャングルの中に飛行機の破片、砲の残骸がツルに絡まれて長い年月そのまま放置されていました。海に向かって父を呼べども声は返って来ず、涙のみ流れました。
終わりに、戦後80年、私たち戦没者の遺児も平均年齢80歳を超え、戦後生まれの方々も9割近くになり、あの戦争の悲惨さも次第に薄れてきていますが、世界ではウクライナでの戦禍をテレビでしばしば見るにつけ、子供の頃のあの恐ろしい空襲の様子を思い出し、心が痛む思いです。
現在の平和な時代が続いているのも先の大戦で多くの犠牲となった父らの尊い御霊の礎があったからだと思います。戦争は絶対にやってはならない。このことを次世代に語り継いでいくことこそ、私たちに最後に与えられた責務だと思います。

須賀 宏江 氏