前橋市
戦争体験記
爆弾で負傷した父とともに逃げた夜
体験者紹介:反町久美子さんは昭和20年8月5日の夜、当時8歳で、現在の前橋市千代田町の自宅で被災しました。いつものように空襲警報のサイレンの音で目が覚め、防空壕に避難する際のいつもとは違う殺気立った様子を鮮明に覚えているそうです。その体験を後世に残すため、前橋市で戦後60年を記念し作成した証言DVD「空襲の炎の中で」の作成に語り手として携わりました。
私が8歳の時です。昭和20年8月5日、もう休んでいたんですけど、警戒警報のサイレンが鳴りまして、自分の枕元にあります用意してある洋服、リュック、防空頭巾をつけて母と一緒に外にでました。母は妹をおぶって弟を連れて私と4人で、母が外に出た時に今日の様子はどうもいつもと違うから父を呼んでくるように、ということで父を呼びに行きました。父はいつもでしたら自分の家にある防空壕に残るのですけれども、呼びに行って一緒に清王寺まで行きました。清王寺の親戚の家の前に大きい防空壕が用意されているんですけれども、やっとそこに着きましたら「防空壕は危ないから東に逃げろ。」というその声で無我夢中で東の方に逃げて行きました。人の波の中に進んで行きましたら、空から爆撃機 B 29の爆撃が落ちてきて、その破片が散って雹(ひょう)のように降ってきてるんです。その時は怖い恐怖とかそういうものは全然感じ方が違いますよね。もっと切実だったんだと思うんです。それが当たって苦しんで倒れる人、叫んでる人、その人たちを本当にまたぐような形で前へ進んで行って、怖いながらも父の手につかまりながら防空頭巾の中からそおっと空を見ると本当に雹(ひょう)の大きいのが降ってるんですよね。自分はいつ当たるんだろう、いつ当たるんだろうと思いながら進んでたんですけれども、それが当たる人と当たらない人とあるんですよね。それが子供心に凄く不思議でした。それから小さい小川のようなところに行きましたら、もう本当にその溢れんばかりに人が倒れてるんですよね。本当に苦しんで苦しんでもう亡くなってる方もいらっしゃるし、それを越えて桑畑に着きました。
桑畑に着いてほっとしましたらば、父が爆撃を受けてるのがわかったんです。腕に4箇所、そしてお尻に破片が入って、その時は父も弟を片腕に抱いていたので、その空いてる方の片腕に爆撃を受けたんだと思うんですけれども、あまりどうこうということは声にも出していなかったですね。母の方がたまげて「薬!薬!」って、私のリュックの中から私が喘息でいつも持っていた龍角散の缶の中からそこに振りかけてました。その他にすることがなかったなと思いますよね。母が父が爆撃受けたんだから、「もうお父ちゃんがこんな怪我をしちゃったんだからもう助からないからね。みんな一緒に死のうね。」ということで、だから死ぬということがどういうことかっていうこともわかんないんですよね。だから「うん。」と返事して一緒に立ったんです。そしたら隣の桑畑の柵にお母さんと女の子2人の親子がいて、お母さんはお腹に赤ちゃんがいて、そこに爆撃を受けてお母さんもすごい苦しんで「お母さんもう助かるないから。」、2人に「逃げろ!逃げろ!」って言ってるんですよね。だけど「いやだ、いやだ。」って、もうほんとに母親からいつでもまだ一緒にいたい年頃のお子さんでしたから。それはすごい声で泣いていましたね。
それまで子供の声とか赤ちゃんの声というのは一切聞こえなかったんですけれど、そこに行って初めてそういう声を聞きました。でもそれが聞こえてきて自分でもどうこう言う涙がいっぱい出ました、その時。それで水田の方に移っていったんです。そこでピッタリ爆撃が止まってしまったんですよね。そこに、水田にいつまでもいてもあれだから、「じゃあ、ここから出なければ。」って言って出て、そこの近所のお百姓さんの所に行ったんですよね。その方はとっても親切な方で心配してくださって「疎開先はどこだ。」って聞かれたので、「端(は)気(け)だ。」っていうことでね、父が爆撃を受けてたでしょ、だからリアカーに乗せて端(は)気(け)まで連れてって下さったんですよ。で、もう着いた時にはもう明るくなってましたね。それでも一睡もしない、一(ひと)休(やす)みもしないで母をまだ妹をおぶったまんま、家を見に行ってくるって、街の方に降りて行ったんです。しばらくして夕方帰ってきたんですけれども、もう本当に母も放心状態でしたよね。あまりのすごさにね、言葉には出ないって言ってました。まだまだ火も煙も出ているし、すごい匂いと、人はもう亡くなっているしね。そこで聞いてきたのは本当に逃げ場もなく、火に追われて、今度は広瀬川の中に、お水の中に入ればって、お水の中に入ったらそれが煮え湯で即死。それをその親戚の人とか近所の人から聞いてもう何も言えなかったですね。あまりにも悲惨な光景を聞かされたんで。
今60年経ちましたよね。その間にはあまり人にこういうことを話すっていうこともなかったです。それは無意識のうちになんですけれども。子供にも弟妹(きょうだい)とかに話をしたという記憶にないですね。だから私の体の中でもっともっと深くて嫌な思い出だったんだと思いますよね。今ここに来て思い返すことができたり、文章に書き表すことができるようにやっとなったんだと思います。やっぱりこういうことは皆さん知らない時代の人たちに言い伝えていかなければならないし、知っていただきたいんですね。
