日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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土浦市

戦争体験記

土浦館への疎開と群馬への再疎開

森 玲子 氏

森さんは当時、家族と一緒に東京都新宿区西大久保で暮らし、戸山国民学校に通っていました。昭和十九(一九四四)年九月、戦況が悪化し、三、四年生は土浦市へ学童疎開をすることになり、四年生だった森さんも土浦への疎開、群馬への再疎開を体験しました。

土浦館は旅館だったところで、私たちを受入れるために土浦学寮と名を変えたと聞いています。

土浦での暮らしは、初めのうちは遠足気分でしたが、二、三日後にはホームシックになり、皆で泣きました。食糧事情は、今思えば贅沢なことにワカサギや納豆など、ふんだんに食べましたが、しばらくすると食糧が少なくなり、さつまいもの食事が続き、胸やけしたことを覚えています。

私の周りではありませんでしたが、甘いからと絵の具を食べたという、今では信じられないような話もありました。親がお手玉の中に煎り大豆を入れてくれ、それを一粒ずつこっそりと、何十回も噛んで食べたという話もありました。

土浦館での生活は、一つ一つは日々の小さな事柄なので、強く印象に残っているものは少ないのですが、辛かったことといえば、凍てつく朝に裸足でマラソンをしたこと、重い薪運びで手が痛かったこと、トイレの数が少なくていつも順番待ちで、冬が特に辛かったことなどでしょうか。

トイレ待ちの時は、足踏みして我慢しながら、歴代の天皇の名前を暗唱していたことなど、今思うと、当時は「神」であった天皇の名前をトイレ待ちに使っていたことが、おかしくもあり、また、暗記することが重視されていた当時の教育を受けたことが、残念に思われます。考えることよりも、決められたことをそのまま受け入れることが大事だったのです。

空腹とおやつの無い日々、規則にしばられた生活、それを受け止めてくれる大人がいないことが、子どもの心を多少なりとも蝕んでいき、それが、弱い子へのいじめのようなものにつながって行ったと思います。私も、もしかするとそれに加わっていたかもと、今でも心が痛みます。今思えば、集団疎開生活はミニ軍隊のようなものでした。

そうした生活の中で嬉しかったことは、予科練のお兄さん達が時々来て遊んでくれたことや、当時の皇后陛下から子どもたちに下賜されたビスケット(たしか二枚位でした)が食べられたことでした。

最大の楽しみは、親の面会でしたが、列車の切符がなかなか買えず、ごくたまの面会でした。しかしこれは別れる時の新たな悲しみを生みました。旅館前の川に架かる橋を親が渡りきり、姿が見えなくなると、みんな一斉に泣き出しましたので、この八千代橋を私たちは「涙橋」と呼んでいました。

面会とは別に、親からの手紙も楽しみでした。こちらから出す手紙は全て先生の検閲を受けるため、淋しい、お腹が空いている、家に帰りたいなど、書くことが出来ず、元気に頑張っています、毎日楽しいです、など、模範的な手紙を書いていたので、親にはどこまで事実が伝わっていたのだろうかと思います。

年が明けた頃から東京への空襲がひどくなり、土浦にも警戒警報や空襲警報が度々鳴るようになりました。私たちも川沿いに掘られた防空壕へ真夜中、飛び込むことが多くなりました。航空隊が近くに有ることなどから、土浦は危険とされ、五月には群馬への再疎開が決まりました。

群馬は安全ではありましたが、土浦とは比較にならない程、食糧、水などが過酷な状況でした。山寺の庭に生えているアカザを採ったり、それを採り尽くすとシロザ(アカザよりもっとまずい)を採りました。先生方は食料の調達に大変苦労なさったと後に聞きました。

山寺でしたので水も十分でなく、洗顔は洗面器一杯と決められ、入浴の日は山門の下からバケツリレーで水を運びました。ですから入浴回数も少なかったと思います。

水不足による不衛生、栄養不足などのため、ノミ、シラミが髪の毛やシャツにつき、悩まされました。寮母さん方が大鍋で衣類を煮沸したり、髪を梳いて下さり、何とか凌いでいました。生活全般に亘ってひどい状態でしたので、先生や寮母さんは、どんなに大変だったかと、今になって頭が下がる思いです。

その後、五月二十五日の東京最後の大空襲で私の家も罹災し、父の実家の山形へ行くことになりました。私は罹災したことよりも、これで親と一緒に暮らせる、と嬉しくて、迎えを心待ちにしていました。雨の降る日、母が山寺の石段を上ってくるのを見つけた時の喜びは、今でも鮮明に甦ります。

やがて戻った東京は焼け野原。住む家も食べる物もない、全くの無い無い尽くしの状態でした。そんなゼロからのスタートで、復興が形となるまでには、大人も子供も塗炭の苦しみを味わいました。

今も世界各地で同様な、或いはもっと悲惨な状況下で苦しんでいる人たちが沢山いることを、心から憂えています。平和こそが何にも代え難いものと強く思います。

森 玲子 氏