日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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日立市

戦争体験記

小学4年生の戦災体験

皆川 直司 氏

【人物紹介】
皆川直司
日立市在住。国民学校4年生のときに、相賀町の自宅で、三度の大規模戦災を体験する。その後は、教員となり、自身の戦災体験を子どもたちへ伝える授業を行う。教員を定年後は、日立のまち案内人としての活動や、日立市平和展などで戦災体験を伝える活動に協力いただいている。
【小学4年生の戦災体験】
昭和20年の夏、私は日立市立会瀬国民学校4年生だった。
学区内には日立製作所海岸工場がある。私の家は工場の省線門から東に向かい海岸に下る坂の近くにあった。
6月10日は朝からよい天気だった。日曜日なので女学生の姉も小学六年生の兄も二年生の弟も家にいた。朝早くから工場の屋上にあるサイレンが警戒警報を報せていた不安な朝だった。
父は会社が休みで家にいたから、その日は六人の家族全員が居たことになる。兄弟は家から離れることなく遊んでいたが、連続音の空襲警報のサイレンを聞いてあわてて庭先の防空壕に入り込んだ。
当時は空からの攻撃に備えてどこの家にも壕が作られており、公共の防空壕もあった。わが家の壕は父が作った家族六人が入ると身動きもできないような小さなもので、天井に薄い板が二、三枚載せてあり、深さは一メートルくらいだった。
そのうちに飛行機の爆音とともに無数のヒューンヒューンという音と、今まで聞いたことのないものすごい爆発音が連続して聞こえた。壕の中でうずくまったまま手を顔面に持っていき、親指で両耳を押さえ、他の指で両目を押さえた。学校で何度も練習した行動である。衝撃音で耳の鼓膜が破れないように耳を守り、衝撃で眼球が飛び出さないように閉じた目を押さえ、呼吸ができるように口を開け身体を低くするのだと教えられていたのだ。
連続する爆発音、地響きと振動は身が縮まるような恐ろしさで生きた心地もしなかった。耳を押さえる手にも力が入る。爆弾が落ちてくる時の音、炸裂する音が怖いのだ。まわりには家族がいる筈なのだが、真っ暗闇の中では自分ひとりの存在しか感じない。小さな箱の中にひとり閉じ込められ、坂を転げ落とされているような気持ちだ。
非常に長い時間に感じたが、やっと静かになった時、みんなの安全を確かめる父のかすれた声が聞こえた。父はすぐさま会社がどうなっているか見てくると言い出し、家族みんなの「行ってはだめ!」という悲痛な声にもかかわらず壕から出て行ってしまった。
それから間もなく再び恐ろしい音がきこえてきた。爆弾が落ちてくる時の異様な、すごくいやなヒューンという音だ。それに続く破裂する轟音、またひとりぼっちになってしまった。父のことどころではない。小さな壕が崩れてしまうような振動だ。神様、仏様なんとか助けてください、早く終わらせて下さいと念じ続けた。音が止み静かになっても同じ姿勢でいた。父が無事な姿で壕に飛び込んできた時は家族みんなで喜んだ。
ホッとする間もなく三回目の攻撃が始まった。そして四回目と、終わりのない恐怖が襲いかかってくる。四回目が終わってから長い沈黙の時間が過ぎていった。何がどうなっているのかわからないが、生きていることだけは確かだ。狭い壕内に息をひそめ身動きしないでいたが、やがて暑さを感じるようになった。もう大丈夫だろうと父が外に出た。四回目が終わってからずいぶんと時間はたっていた。
外に出てもよいとの父の声で、やっと壕の外に出た。外の太陽の光はびっくりするほどまぶしいものだった。いつも見慣れた工場のあたりには黒煙が上がり、黒い鉄骨だけの建屋が見えた。わが家は健在だったが、家の中の壁は落ち、足の踏み場もないような状態だった。
その時、家の裏に今朝までなかった大きな石が転がっていた。黒い斑点がある白い石で、石垣に利用するみかげ石だった。この石は百メートル位離れたところの不動院の石垣のもので、この不動院の石垣付近に爆弾が落ちたことを後で確認しているので、爆発の衝撃でそこから空を飛んできたとしか考えられない。この記念すべき石はその後しばらくの間、わが家の漬物の重石に利用された。
家の外はどうなっているのか、どんな被害状況なのか見たくてしかたなかったが、父は私たちを外に出さず、夕方ちかくなってやっと外に出る許しが出た。
そこから駅方面を見ると毎日学校へ通っていた道路はなく、いたる所に大きな穴があり、凸凹の荒れ地と家屋の残骸が眼に入った。不規則に傾いた電柱とたれ下がった電線ばかりがよく見える。電線の一部が倒れかかった電柱と電柱の間に残っていたが、どの電線にもボロ布がぶら下がっている。ボロボロの土色をした不揃いの雑巾のような布の切れ端が路の両側の電線にぶら下がっていた。どうしてあんなにボロがぶら下がっているのだろうかと不思議でしかたなかった。
不発弾があるという周りの声で、正門橋をわたり見に行った。海岸工場正門前あたりの路上には大きな爆弾があった。まるまる太ったような爆弾だった。鉄が裂けてめくれた胴体の中には、ビッシリと詰まった鮮やかな黄色の火薬が見えた。
相賀町内には一家全滅の家もあり、多数の犠牲者がでたが、痛ましい姿は私の眼に触れることはなかった。
まもなく梅雨にはいった。夜はいやだった。むしあつく真っ暗な夜なのである。灯火管制といって、夜は電灯の使用が自由ではなかった。外に灯火がもれないようにしたのである。
学校では暗い家の中で衣類を身につける訓練までやった。枕元に脱いだ衣類を順序よく重ね、暗闇の中でもすばやく着衣できる訓練である。

昭和20年7月17日の暑い夜、飛行機の音とともに急に家の中が明るくなった。不安と恐怖のなかで着替えた。真夜中で外は雨だ。やがて、今まで聞いたことのない恐ろしい音が頭の上から襲いかかってきた。
雨の中、また庭にある防空壕に逃げ込んだ。遠くからヒュルルルという音が聞こえたかと思うと、頭の上を越えた音はすぐに爆発の音に変わる。耳で手を覆ったが、ヒュルルルという恐ろしい音は間断なく耳に入ってくる。いつまで続くのか、とてつもなく恐ろしい長い時間だった。遠くで聞こえる爆発音がだんだん近づくような感じもした。飛行機からの爆弾でないことはわかったが、一体何が始まったのかまったく判らず、暗いじめじめした壕のなかでうずくまっているだけだった。
身近に危険が無いと思ったのか父は外に出た。「海からの攻撃だ、外にでて見てみろ」と言われ、おそるおそる外に出て海の方を見たが、雨の中、暗くてなにも見えなかった。それが艦砲射撃というものだったことは後で知った。
会瀬学区に被害はなかったが、真夜中の艦砲射撃で多くの住民は恐怖に打ちのめされた。
頭上を砲弾が飛んでいくときのあの音は、体験した人のみ記憶に残り、いつになっても忘れはしないだろう。まして子どもにとっては……。

艦砲射撃の恐怖もさめない7月19日の真夜中、空襲警報と共に飛行機の爆音が聞こえた。真っ暗な家の中で息をひそめていたが、やがて今までに聞いたことが無いようなザアーザアーという音を耳にした。
わが家の壕では危険と察した父は、海岸近くの岩をくり抜いた避難壕へ逃げろと家族へ指示した。赤くなった上空を見上げると大きな火の塊が見える。手に小さな腰掛けを持ち、避難壕までの最短距離である土手下の隣家の庭先を横切り、無我夢中で走った。五十メートル位離れた海岸への坂道の途中にある岩をくり抜いて作った壕には、大人が何人か避難していた。兄と真っ暗なじめじめした穴の一番奥に行き、手にした腰掛けに座った。この腰掛けは家族が「猿の腰掛け」と名付けていたもので、高さと幅が十センチ、長さ三十センチくらいのものだった。安全な避難場所である岩の壕は、天井から地下水が垂れ落ちており地面には水たまりがあるので、父がこの腰掛けを作ったのである。
遅れて姉と弟も壕に入ってきた。きょうだい全員がひとまず無事であったわけだ。
壕の中まであのいやなザアーザアーという音が聞こえてくる。やがて静かになったが、今度は鼻をつく油の臭いと煙が狭い壕に充満し、息苦しくなってきた。
いぶりだされるように壕の入り口に出、海の方向を見てびっくりしてしまった。見える範囲の海は一面火の海なのだ。白い波ではなく赤い炎の波が、次から次と砕けているのが見えた。波の上を黒い煙が覆い、陸地の方に流れている。この煙が壕の中まで入ってきていたのだった。真夜中なのに一面の炎でまわりは昼間のように明るく、壕の前では声も無く大人も子どももぼうぜんと海を見て立ちつくしていた。
やがて、無事だった父がみんなの安全を確かめるとともに、幸いにもわが家が被害を受けなかったことを知らせてくれた。夜明けとともにわが家に戻ったが、その頃には海の火も消えており、遠くの濱の宮にある工場が炎と黒煙をあげているのが見えた。
昼間、家の周辺を偵察した。不発弾が多いと父に聞いたからだ。昨夜夢中で走って横切った隣の庭先にある木材置場に、列をなして焼夷弾が突き刺さっているのを見た時は身震いした。
昨夜の空からの攻撃が、焼夷弾によって日立を焼きつくすためのものだったと判ったのは後のことだった。
(『日立の空襲 語りつぐ戦災体験』平成15年 日立市郷土博物館発行への寄稿)

皆川 直司 氏