日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

  1. ホーム
  2. 会員
  3. 被爆80周年事業「未来につなぐ戦争の記憶」
  4. 茨城県
  5. 水戸市

水戸市

戦争体験記

私は戦争を忘れない―水戸空襲の記憶                  

小菅 次男 氏(茨城県水戸市)

小菅さんは当時9歳。茨城師範学校男子部付属国民学校の生徒でした。B29による空襲から避難する最中、家族とはぐれてしまいましたが、翌朝に全員と再会できました。住家は全焼し、防空壕で暮らすことになりました。

終戦の昭和20年8月15日、私は国民学校の3年生で、水戸市内に住み、長男兄19歳を頭に姉2人、私、弟、妹2人の7人兄弟であった。
 昭和20年に入ると、B29が水戸市上空を通過する姿が見られるようになり、紺碧の空を銀色に光るB29の機体は美しかった。水戸南飛行場から戦闘機が敵機に向かい上昇するがB29までは追いつかない。高射砲陣地からの弾丸は敵機に届かない。ある時、1機だけ敵機に近づいたが撃ち落された。子供心にも無念に思ったことが記憶にある。
 昭和20年の初夏、近所の7人(小学4年生から4歳児)で水戸駅南側の水田地帯に魚とりに出かけた。魚とりに夢中になっていると、西の空に戦闘機の編隊が現れ、私たちの方に向かって急降下。米国のマーク、搭乗員まで見える低さで水戸駅に向かって機銃掃射。恐ろしさに震え上がった。土手に伏せた後、桜の木の下に逃げ、幹にしがみついて震えていた。
 8月1日の夕方、警戒警報が鳴り、常陽銀行の大きな防空壕に近所の家族と避難したが、一旦、警戒警報が解除になった。ところが、8月2日午前0時過ぎ、暗闇の中B29の轟音が聞こえ、水戸駅上空あたりに照明弾が落とされ、パーッと昼間のような明るさとなった。
 続いて、親子焼夷弾が落とされ始めた。父は防空壕入口から常に外の様子を見ていた。しばらくして、ドーンという爆発音と共に銀行前に火柱が上がった。その時父が「もう駄目だ逃げろ」と号令した。逃げる時は、父、母、兄の3人が頭で3斑に分かれて逃げることに決めていた。私は母と末の妹と逃げた。逃げる道路上には焼夷弾が破裂して燃えており、母は一度焼夷弾を避けて側溝に飛び込み隠れた。私は側溝から這い上がってきた母の後ろに続き逃げた。道路上にも容赦なく焼夷弾は落下した。火を放ちながら落下する焼夷弾がいつ自分にあたるかと恐怖に慄きながらの逃避行であった。途中、裁判所が火の海と化し、水戸高等女学校の2階校舎はすでに炎に包まれていた。私たち家族は市街地の北側を流れる那珂川方面に逃げることを決めていた。母と私は水戸東武館の脇から斜面を降りる細い道に向かった。大勢の人で込み合う中で母を見失った。必死で「おかーさん、おかーさん」と何度も叫んだ。斜面下の竹藪の中に避難していた東武館の家族が、母を探す私を不憫に思ったのか、一緒にいなさいと言ってくれた。 空は真っ赤、焼夷弾の落下するフィリ、フィリという音。館長さん達が道場の屋根に上りバケツで水をかけていた。「おとーさん、おとーさんもう止めて」との家族の悲痛な叫びでも館長さん達は止めなかった。竹藪の中にも時々焼夷弾が落ちて燃え上がる。必死で消し、場所をときどき変えたことが記憶にある。攻撃が止み、あたりが明るくなる頃、坂を上がると市街地の想像もしなかった焼け野が原の姿に驚いた。我が家に着くと家族は全員すでに戻っていた。私の安否を母親が特に心配していたという。我が家の焼け跡に金庫と五右衛門風呂の二つがぽつんと残っていたのが印象的だった。母親が逃げる時に米を入れた釜を水の入った風呂の中に放り込んで行った。ところが、風呂の水は空、釜の中の米は跡形もなく消えていた。風呂の水がすべて蒸発して無くなるほどの熱だったから防空壕にいたら助からなかったと思う。庭の防空壕は無事で、入口に突き刺さっていた親子焼夷弾の部品を父が丸テーブルの台座に利用し今でも玄関で来客を出迎えている。
 悲しいことに銀行隣、茨城新聞社裏のお屋敷のご夫婦が、黒焦げの死体となっていた。何度か大きな庭で遊ばせてもらったことがある優しい老夫婦だった。黒焦げの死体のあごの所から油のような血のしずくがポタリ、ポタリと落ちる姿や夜に防空壕の外に出ると月明かりの中で浮かぶ黒々とした亡骸が今でも目に浮かんでくる。
 父は東京、母は石川県珠洲市の出。頼る親戚等もなく、しばらくは防空壕暮らしだった。その後バラックを建てる為に姉と一緒に焼け跡からトタンを探し、ガラガラと引きずって来たことを思い出す。土の上にござを引き、防空壕で焼け残った布団を使って寝た。
 天皇陛下による終戦の玉音放送のあった8月15日朝、私はひきつけを起こし意識不明となり、焼け残った三の丸の山田医院に運び込まれ、夕方意識を取り戻し助かった。その日は私の誕生日。その日正午の放送を我が家は聞くところではなかったと思う。食べ物に事欠いた戦後、7人の子供を飢えることなく育てた父母に感謝感謝ただただ感謝である。
 飛来したB29は167機、0時31分~2時16分間の爆撃、死者300名超えであった。その後、広島、長崎の原爆の悲惨な状況を知ることとなる。今も戦争は続いている。なぜ、人間は戦争し、人を殺さなければならないのか。戦争の名のもとに人を殺すことがなぜ許されるのか。戦争は地球最大の悪である。平和な地球を夢見て!