日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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郡山市

戦争体験記

勤労動員中、空襲に遭遇して

岩城 圭一 氏

岩城 圭一さんは、当時、安積中学校3年生でした。勤労動員中、空襲に遭遇した際の体験記です。
安積中学(旧5年制)の3年生が、保土谷化学に勤労動員を受けたのは、昭和19年の12月のことである。14・5歳の少年のころであったし、サイパン・グアムが陥落したとはいえ、一般にそう緊迫した空気はなかったようである。まだ、さかんに防空壕つくりをしていたころであった。
(中略)
工場にはいって5ヵ月目であったと思うが、その日は、晴れわたっていた。もう少しでお昼になるというときであった。警戒警報のサイレンが鳴ったと思う間もなく、すぐに空襲警報となった。防空壕に待避しようと工場から出て外を見ると、ちょうど北の方富久山日東紡の上空に5・6機のB29が見えた。(B29は当時世界最大の戦略爆撃機で、一機で何トンもの爆弾や焼夷弾を搭載し、乗員も10名ぐらいで、グアムやサイパンから1万メートルの高空を飛来し、手がつけられない程の威力を発揮していた。3月に行なわれた東京大空襲の記憶もまだなまなましいときであった。)新聞や写真などでお目にかかったことはあるが、実物を見るのははじめてである。きれいな春の空にとけ込むように、銀色のととのった形の飛行機が見えた。と思う間もなく、1機ずつ降下してきて、胴体から小さな黒いつぶをバラバラと落とした。爆弾である。ドカーンという物すごい大きい音がして、工場の屋根より高いぐらいに、こげ茶色の土けむりが上がった。まったく、のん気というほかはなかったが、はじめての経験のせいか、自分のところに空襲を受けていなかったせいか、恐怖感もなく見ていた。
ところが、ひとしきりの空襲がすむと、いきなり機首をこちらに向けるではないか。急降下したらしく、みるみる機体が大きくなり、しかも爆弾をバラバラと落として、黒い小さなつぶつぶが糸を引いたように、頭上に迫ってくる。
10人位はいったと思うが、みんなであわてて防空壕に飛び込んだ。木製のがんじょうな蓋をしめ、すぐに床に俯せになって、日ごろ教えられたとおり耳と目をふさいだ。そのとたん、ガガーンという音と強い衝撃を受けて、そのはずみにからだが2・30センチもとび上がった。無我夢中で再び身を俯せた。何回も何回も続けた。だれも一言も口をきかない。しかも爆撃の合間には、シーンとして恐ろしい程の静寂が続く背中に石炭がらがガラガラと入ってくる。がんじょうな木の蓋も吹っ飛んでしまった。その瞬間であるが、両親や兄弟のこと、同じ工場に勤めている同級生のことなどが、走馬燈のように頭に浮かんでくる。わたしは、爆弾というのは、ドーン、ドーンと間をおいて、1発ずつ落とすものとばかり想像していたが、実際はそうではなかった。ちょうど機関銃のように、ダダダ、ダダダと3発ずつ落としているようであった。ながいながい時間がたったように思われた。しばらくして、全然爆撃の音がしなくなったので、恐る恐る入口から外を見てみた。
びっくりしたことに、爆撃のまえまでは、あんなに堂々と建っていて、さかんに製品をつくり動いていた工場が、見るも無惨な有様となっていた。立っているのは、煙突ばかり、屋根も柱も壁も、機械類も累々と横たわり、あちらこちらから土けむりや白煙がたっていた。となりのボイラー工場からは、大きな音とともに、まっ白い蒸気が吹き出していた。心の底から恐ろしいと思った。また、爆音が高くなり、爆弾のヒューンという音が聞こえてきたので、あわてて飛び込んだ。このようなことを何回か繰りかえした。
情なかったのは、この間敵機を追払う味方機が、1機もなかったことであった。高射砲の音も聞こえない。ただ敵機の蹂躙にまかせているだけであった。日本の形勢がよくないことは承知していたが、このときはじめて本当に負けるのではないかと思った。しまいには、少し馴れてきて、おしゃべりも出てきた。
しばらくして、爆撃の音がしなくなったので、久保田の森に逃げることにした。(この日の組長さんは決断力と統率力のある立派な方であった。)
振興アルミという工場が保土谷化学の工場の北隣にあったが、その東側の道路を通って逃げた。恐怖心にかられて、一同の走り方ははやかった。途中、何人かの爆死者をはじめて見た。からだがそっくりしていた人ばかりであった。直径5メートル位の大きな穴が一列に3つずつあいていた。250キロ爆弾らしいという。久保田の森についてやっと一息ついた。爆撃は、一切終わっていた。夕暮れに近いので、ひとまず工場にもどることにした。東橋のところにいってみると、大きな牛が2匹、黒こげになってうずくまっていた。駅の線路もやられたらしい。しきりに人が出て直していた。
工場や事務所はさかんに燃えており、あつくて近づけない程であった。何としても仕方がないので、それぞれ帰宅することにしたが、このとき友人の誰れにも会わなかった。わたしは家が安中のすぐ西の方なので、安中に報告してくれといわれた。
その頃になって研究所に直撃弾が落ちて、全滅したということが伝わってきた。白河高女の生徒のなかならもかなりの数の犠牲者が出たということが報らされた。安積中学(現安積高校)にゆくと、いろいろ先生がたに聞かれたが、全貌はまったくわからなかった。うわさに聞いたことを答えるのみであった。
あとでわかったことであるが、同級生の杉本胖・柳沼三郎・大竹道夫・柏村栄・小林文雄・伊藤敏雄君ら6名が東部研究室のすぐ側の防空壕で直撃弾をうけ即死したのであった。何れも安中(安積高校)の優秀な生徒たちで、人柄も立派で将来を嘱望されていたのである。  
それだけに、ほんとうに残念でならない。(後で保土谷化学では如宝寺境内に保土谷の被爆者の供養塔が建てられた。)
この経験をもってからというもの、空襲警報のサイレンを聞くたびに、恐怖心が胸につきあげてきて、ただ無事を祈って逃げることばかり考えた。恐ろしいものである。
その後、テレビなどで、戦争の場面をみるが、決して悠々と見ていられるものではなかった。戦争などというものは、ちょっと位のことでできるものではないと、つくづく考える。
(出典:『郡山戦災史』 編集:郡山戦災を記録する会)

保土谷化学郡山工場空襲(アメリカ国立公文書館提供)