日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

  1. ホーム
  2. 会員
  3. 被爆80周年事業「未来につなぐ戦争の記憶」
  4. 秋田県
  5. 羽後町

羽後町

戦争体験記

苦しい時代を生き抜いて

浦田 東一 氏

浦田さんは終戦当時19歳。尋常小学校を卒業後、高等科(昭和15年まで高等小学校、16年から国民学校高等科に名称変更)に進学し、昭和17年3月に卒業。その後、松岡村(現在の湯沢市松岡)にある松岡鉱山で亜鉛の採掘に従事していました。直接的な空襲被害はありませんでしたが、日常生活は非常に苦しいものでした。

私は5人兄弟の長男で、かやぶき屋根職人の父と行商の母と共に暮らしていました。田んぼを所有しており、米を作っていたため、戦争が激しくなるまでは深刻な食糧難に陥ることはありませんでした。しかし、食糧配給制が始まると状況は一変しました。「兵隊さんに送るため」という理由で、家で作った味噌や米など、ありとあらゆる食糧が没収されました。各家々では味噌やくず米を隠していましたが、見つかって没収されてしまうことも多かったように思います。私の家には食べ盛りの子供がおり、配給されたわずかな食糧では家族全員が満足に食べることはできず、常に飢えに苦しんでいました。米に大根の葉や豆などを混ぜて嵩増していましたが、それでも量が少なく、調味料がないために味もなくおいしいとは言えませんでした。それでも腹は常に減っていますから、生きていくにはあるものを食べるしかありませんでした。5番目の弟は幼くして亡くなってしまいました。両親は非常に苦労したと思います。当時、一般家庭に対する配給制度は非常に厳しかった一方で、役所の職員や学校の先生などの立場にある人たちは、配給基準が緩くなっていたという話を聞きました。彼らの家には米や調味料が豊富にあり、帳簿に記載されるべき配給内容も不正に処理されていたと聞き、貧富の差を感じ、悔しい思いをしました。
当時の衣類は、端切れを縫い合わせたものがほとんどで、靴は自分で編んだ稲わらの草履や長靴を履いていました。それ以外は、常に裸足。現在のように道路が舗装されていたわけでなく、どこもかしこも砂利道でしたが、当時は痛みを感じたことはありませんでした。雨でも、雪でもとにかく歩きました。いま足腰が丈夫なのは、若い時に鍛えられたからなのかもしれません。
当時、貝沢村~三輪村まで電車が通っていました。片道3銭だったように記憶しています。当時、1銭あれば大きな飴玉が5個買える時代でしたから、電車に乗って移動するなんてことはとにかく贅沢でしたし、見つかると友人たちから「電車に乗るなんて随分と贅沢なものだな」と陰口をたたかれるような、『贅沢は敵』の時代でした。
戦争が始まったという具体的な情報がどう伝わってきたかは、はっきり覚えていません。しかし、学校生活の中で、徐々に戦争が身近に迫っていることを感じるようになりました。学校では座学がなくなり、代わりに豆や野菜を植える作業や、魚を捕るための網を編む作業、松の根を掘って燃料を作る作業に駆り出されました。
小学校、高等科を卒業して、松岡鉱山で働きました。稼働時間は1日8時間で日曜は休みでした。月給は21円。防空監視隊の予備隊員に選ばれていたので、空襲警報が聞こえたら、作業を中止して、西馬音内小学校まで(現在で片道約7㎞)走って報告に行かなければいけませんでした。ほとんどの場合向かっている途中で空襲警報は解除になるのですが、必ず小学校まで報告に行かなければならない決まりになっていました。途中で引き返し、先輩からひどく怒られ、体が痣だらけになるほど殴られていた人を何人も見たので、怒られるよりは走っていたほうが何倍も楽だと思っていました。
当時、『20歳になると赤紙が届く』と言われていたので、自分もいずれは戦地へ行くのだなとぼんやり考えながら仕事をしていましたが、幸いなことに、松岡鉱山は軍事工場に分類されていたため、同世代の若者よりも兵役の対象になる時期が遅く、兵役に就くことなく終戦を迎えました。赤紙の届いた近所の先輩たちを何人も見送ったことはとても辛いものでした。
昭和20年7月ころだったように記憶しています。日中、田んぼの草取り作業をしていたとき、飛行機が5基ほど頭上を飛んでいきました。その飛行機は遠くの空を何分も旋回していました。あれはなんだろう?と思っているうちに『バンバンバンバンバンバン』と大きな音が聞こえてきました。横手のあたりだろうなと思っているうちに、空襲警報が鳴り始めました。そこで初めて、爆弾が落とされたことに気が付きました。無論、爆弾が落とされた後の空襲警報は何の意味もありません。土崎空襲の時もそうでした。その時は夜中に家の上を飛行機が飛んでいく大きな音が聞こえたのを覚えています。その後しばらくして、また意味のない空襲警報を聞きました。
その後、鉱山にあるラジオで、天皇陛下の放送を聞きました。誰に言われたのかは覚えていませんが、「今日は大事な放送があるから必ずラジオを聴くように」と言われて、皆でラジオの前に集合し放送を聞きました。正直、何を言っているかよくわかりませんでしたが、戦争に負けたことを知ったときはこれから自分たちの生活はどうなってしまうのだろうと不安でした。終戦後、窃盗などの犯罪が全国各地で増加したようでしたが、幸いこの辺りではそのようなこともなく、穏やかに過ごせるようになりました。何より米などの配給制度が廃止になり、空腹でつらい思いをすることも無くなりました。戦争前の生活に戻るまでは2年程かかりましたが、復興のスピードは非常に速かったと思います。戦時中になかった仕事が増え、家を建てる人も増加しました。さらに、子供に教育を受けさせるべく、学校の建設も本格化していきました。鉱山は終戦と同時に役目を終え、私は大工として働きはじめ、何校かの学校建設にも関わりました。
現在97歳。好き嫌いなく何でもたくさん食べ、自分の息子ほどの人たちと毎週のようにグランドゴルフを楽しんでいます。グランドゴルフの無い日は、畑仕事をしたり、自分で車を運転したりして出かけることもあります。今の自分があるのは間違いなく戦争の時代を生き抜いてこられたからでしょう。
しかし、今を生きる若い人たちには、当時のようなつらい思いはしてほしくありません。恒久平和を願います。

浦田 東一 氏