気仙沼市
戦争体験記
私の戦争体験とその後
伊藤さんは気仙沼で空襲があった当時は小学生でした。父が県の指導船である宮城丸の乗組員で軍に徴用された際に命を落としました。現在では,気仙沼で遺族会の会長を務め,戦没者を悼む活動を続けています。
戦争当時,私は小学生だった。小学校では,米軍機が上空を通り,空襲警報が鳴るたびに近くの杉林に逃げていた。そんなことが10回弱あった。学校は空襲警報が鳴るとき以外は,普通に授業をしていたが,食べ物が少なかったため,授業を休んで魚釣りに行く生徒もいた。
昭和20年7月に岩手県釜石市では、戦艦からの砲撃があったが,その音は小学校にいた私の耳にも聞こえた。最初は何の音か分からなかったが,後から釜石での砲撃の音だと分かった。数十キロ離れた気仙沼で音が聞こえるほどであれば,実際に砲撃を受けたところは凄まじい音がしたのだろうと思う。
その約ひと月後に気仙沼でも空襲があった。いつものように空襲警報が鳴り,杉林に隠れた。幸い,私が隠れた場所には攻撃はなかったが,私が住む地域では,船着き場の船や住宅が密集する土地の民家が機銃によって攻撃を受けた。そこでも幸いけが人等はなかったようだった。
私の父は戦争によって亡くなった。父は当時,宮城県の指導船である宮城丸に乗っていた。宮城丸は昭和17年から海軍に徴用され,南洋の島々への物資輸送に従事していた。昭和19年航行中に米軍の魚雷攻撃で沈没し,乗組員だった父も帰らぬ人となった。宮城県からの戦死公報によりその事実を知った。その内容は父が殉職したことと,遺骨を仙台まで取りに来てほしいというものだった。海上で戦死した遺骨が,本当にあるのかと疑問に思いつつ,母とともに仙台に向かい,お寺で桐箱を受け取った。家に帰り,その箱を開けると,そこには紙が入っているだけで,遺骨はなかった。その紙を埋葬するのでは心許ないと思い,徴用される前に父が置いて行った髪と爪,そして父が使っていた枕の中にあったそば殻を埋葬した。
戦争が終結した後は,もともと食糧難であったことと,徴兵された人が帰ってきたこともあり,さらに食料が手に入りづらい状況になった。だが,戦争中に漁船が徴用されたり,漁に出なかったこともあり,海には魚があふれていたため,食料に困れば魚釣りによく行っていた。職がない人は漁師になる人が多く,それが気仙沼が漁業を中心に復興することを後押ししたのだと思う。
そのような状況であったため,私も漁師になった。漁師になって遠洋に漁に行ったときには,戦争で日本軍の戦地となった各地域にも機会あるたびに訪れた。また,漁とは別に母を連れ,父が亡くなった海域にある小笠原諸島の父島にも行った。私の母は夫を亡くしたこともあり,遺族会の副会長を務めていた。私も,漁師をやめてからは,同会の会長を務め,15年以上もたった。これからも亡くなった父を含め,戦没者を悼み続けたい。