石狩市
戦争体験記
東京大空襲後の石狩空襲
藤井コヨさんは石狩町出身で、東京で働いていた際に1945年3月10日の東京大空襲に遭って負傷し、石狩町の実家に帰ってきて療養していました。その療養中の1945年7月15日に石狩空襲に遭いました。こうした空襲体験については石狩市民図書館で行われている「石狩の古老の話を聞く会」で語られ、その内容は石狩市郷土研究会会誌「いしかり暦」第29号(2016)に「古老が語る空襲二題」として収録されました。以下はその抜粋です。
(東京大空襲後)東京から帰るときは、大森に住んでいた母方の姉である大森のおばさんのところに暫く居て、その伯母と一緒に石狩町に帰ってきました。石狩病院の鈴木“だるま”先生(鈴木信三院長)にみてもらいました。だるま先生は「よく助かったなあ」と言ってくれました。
石狩に帰って来たのはもう石狩が暖かくなってからだった。帰って来てからは病院にかかりながら大滝さんのところで運針を習っていました。大滝さんはやまたまさん(ヤマタマ印村田商店)の隣の豆腐屋さんでそこで裁縫を教えていました。石狩では畑も作っていたし、父親が漁師で魚を獲って来ていたし食料には不自由しなかった。
そして七月一五日の石狩空襲にあいました。あの日は東京のいとこが札幌で盲腸の手術を受け、石狩で静養していました。いとこと弟が小学校に遊びに行っていたときに空襲にあい、二人で家に逃げて帰ろうとして能量寺のところから道路に出て来た時、中央バスが寺の鐘撞堂まで来ていました。そのバスの蔭に隠れて家に帰ろうとしていました。私は家のそばの電柱の蔭に隠れて見ていました。
子供達が「撃たれる、撃たれる」と思ったけど出て行けなかった。出ていったら私も撃たれるから。戦闘機が爆弾を落としたが爆弾は能量寺の横にあった林に落ちていました。バスの乗客は 爆弾で怪我をしたが子供達は無事だった。怪我をしたバスの乗客を私の家族と隣の家族が私の家の防空壕に運びましだ。防空壕は七、八人入れる広さがあったし、入れていた物をのけて怪我人をいれました。他に能量寺の境内に運ばれた人もいました。怪我をした人は札幌に連れて行かれた人もいたし、石狩病院で手当を受けた人もいました。(中略)救助班が来るのを待っていたが一時間たっても来なくて、海の方を見たら真っ黒くなっていて火の手があがっていました。橫町の方がやられていて空には二機の戦闘機がグルグル廻っていたので動くことができませんでした。
戦闘機は低空で飛んでいたので、パイロットの飛行帽の眼鏡まで見えました。それも震えながら見たのです。
川にも爆弾が落とされていました。石狩川には石油を通す鉄管の塔がありました。それに爆弾を落としていました。「ジャボン、ジャボン」という音がものすごかった。何しろちょっと大きかった物はみんなやられたんだから。
それからがまた大変でした。また空襲があるんだと、年寄り子供は山林に隠しました。夕方になるとリヤカーに食料や毛布を積んで山に行きました。治水(事務所)の方や川渕の柏林に子供や年寄りを隠したのです。大人は家で見張っていました。三、四日続いたけどもう大丈夫ということで家に帰りました。
参考文献 林恒子 1982 「札幌空襲の実態」『札幌の歴史』第2号
石狩町郷土研究会編 1987 『石狩の空襲を語りつぐ』
三島照子 2016 「いしかり暦」第29号 石狩市郷土研究会
釧路空襲戦災記録会 1988 『[改訂版]釧路空襲』
望来自治連合会 1992 『埋もれた墓標』

