札幌市
戦争体験記
アメリカ軍が札幌へ!
高橋さんは昭和十二年、現札幌市厚別区生まれました。昭和十六年、四歳の時、太平洋戦争がはじまり、二十年、八歳のときに終戦を迎えました。本内容は、平成二十二年六月十四日に聞き取りしたものです。
昭和十八(一九四三)年ごろ、一番大変だったのは、食料でした。私は当時、小学校一年生ですから、詳しいことは分からないのですけれども、とにかく食べるものがないということで、皆さん大変に苦しまれたと思います。お米はもちろんですが、ジャガイモなども不足していました。もちろん、戦争をしていますから、だんだんと戦況が悪くなってきたこともあるのですが、国民にとってみれば、その日、食べるものも満足にないということが一番辛かったのではないでしょうか。
私の家は農家でしたが、とれたお米は、自分のところで食べる自家保有米を除いて供出していました。政府がお米を買い上げて、兵隊の食糧を賄(まかな)っていたのです。ですから、農家もゆとりがなかったのです。ましてや、農家以外の方は食べるものに本当に困っていました。さらに昭和二十年は凶作になり、生産量そのものが少なかったのです。ジャガイモが主食というかお米の代わりだったと思いますが、それも満足に食べられませんでした。私は農家だったのでほかの皆さんよりは多少よかったと思いますが、それでも食べるものが少なくて、口に入るものがあれば何でもいいという状況でした。たえずお腹がすいていました。
当時は着る物もありませんでした。戦争の結果、原料も十分に入ってこなくなったために、節約させられたのです。
北海道にもアメリカの飛行機が空襲に来るということで、二十年ごろからは夜になると、窓に黒い紙を張って、電気の光が外に漏れないようにしました。飛行機の目印にされないようにするということです。また、空襲に備えて、皆、各家庭で防空壕をつくっていました。
実際に、昭和二十年七月十四、十五日にはアメリカの飛行機が北海道に来ています。室蘭もやられましたし、札幌も攻撃されました。厚別で私が体験したのは日中の時間帯でした。たまたま飛行機が来たと思って、手を挙げて飛行機の方を見たら、突然急降下してきたのです。私は慌てて防空壕に飛び込みました。そのときに、函館本線を走っている機関車をねらって撃ったのです。客車ではなくて機関車です。びっくりしました。
そのとき私の父親は、函館本線に近いところの田んぼにたまたまいたのです。はさ木という、木を立てて横に木を並べて、秋に稲をかけるための木を積んでいた下に慌てて潜ったと聞きました。やはり、北海道にも被害があったのです。
終戦近くになってからですが、体育の時間には、生徒はアメリカがもし来たら迎え撃てということで、男子は木刀、女子はなぎなたを持って訓練を受けました。もう体当たり精神です。考え方は特攻隊と同じようなものです。そういうことを我々はやっていました。物資がとにかく不足していましたので、私たちは春先に野幌(のっぽろ)原始林の方へ行き、イタヤカエデの幹を傷つけるのです。そして、その傷のところに鉄板を刺して、樋(とい)にするのです。そこから出る樹液がすごく甘いのです。これを一升瓶にとって、学校に出しました。これも供出と言ったのです。当時は、近所の生徒と競って一緒に供出しました。
私の家には当時、農家としては珍しくラジオがありました。それから、新聞もとっていましたので、戦争の状況がある程度分かるような環境でした。戦況は、大本営発表という言葉がありますが、実際には事実と違った発表をしていました。ただ、だんだんと日本軍は後退して、本土に迫られているという状況だけはラジオや新聞で伝わってきました。
私の家は国道に面していて、日本軍が時々訓練に来る途中にありました。そのときにがっかりしたのは、終戦間近に走っていたトラックが木製だったことです。物資がなくて、炭をたいて走っていたのです。だから、動いてはいたのでしょうけれども、能力的には非常に劣って、戦闘能力は本当にひどかったのではないかと思います。やはり、昭和二十年に入ってから、アメリカ軍が日本本土にどんどん空襲をかけてきていますから、そういう事実を知れば、これはひどいな、勝てる見込みはないなと思いました。
玉音放送は自宅で聞きました。前日からラジオ放送が止まっていて、おかしいなとは思っていたのですが、八月十五日の午前中に突然ラジオが鳴り出しまして、正午から玉音放送がありますという放送があったのです。玉音放送というのは雲のような存在の天皇陛下の生の言葉ですから、まさか終戦の際に聞くとは思いませんでした。
そのときはこれで終わったのだなと実感しました。ただ、あまり残念だという気持ちはなかったような気がします。その前からだんだん戦況が悪くなっていて、国民の生活がひどい状態だということは小さいなりにも分かりましたから。やむを得ないというか、仕方ないかという気持ちだったと思います。少しほっとするような気持ちもあったかもしれません。周りを見ても悔しいというような反応はなかったような記憶があります。皆さんもう生活そのものに疲れていたのだと思います。
終戦後、一番大きい変化は、アメリカ軍が進駐してきたことです。札幌にも入ってきました。そして小樽に上陸して札幌に来た進駐軍が、翌日国道を通って旭川に行くという連絡が警察からあったのです。私は国道が通学路でしたが、当日は休んでいいということで学校に行かなかったのです。旭川に向かう米軍が武装したまま来て、その装備を見たときに、以前に見た日本の木製自動車との差が余りに大きくて本当にびっくりしました。装備が全然違うのです。これでは勝てないのは当たり前だなと、そのときにつくづく思いました。
朝早くから夕方までずっと一日中、戦車から装甲車、トラック、ジープ、そういうものが旭川に向かっていくのです。国道には警察以外は出てはいけないと言われていました。進駐軍はみんな銃を構えて、目つきだってすごかったですし、警察もびくびくしていました。その怖さもあるのですけれども、一番印象に残ったのは装備の差でした。
これからの若い皆さんには、留学などをどんどんして国際化というか、視野を広げて欲しいと思います。そうやって学んだことを自分たちの国の繁栄に生かすという心がけで勉強してほしいとに思います。そうすると、物事の判断のときに、狭い見方ではなくて、広い見方でいろいろなことが判断できると思います。何も国会議員にならなくても、民間の会社に勤めても同じだと思います。そういう人がたくさん出てくれるといいと思います。
出典:語り継ぐ札幌市民100人の戦争体験、平成25年3月発行、編集・発行:札幌市
