中城村
戦争被害の状況
戦前・戦中の中城村
沖縄の画地に軍隊が配備されるようになった1944(昭和19)年の夏以降、日本軍は炊事や救護、陣地構築などの様々な作業に地元の人々を動員するようになりました。米軍の沖縄上陸が間近であると予想されるようになった1945(昭和20)年2月以降には、日本軍の人員不足を補うため、防衛隊、準軍属、学徒隊などの形で、多くの一般住民が戦場へと駆り出されていきました。
1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸し、4月3日には中城城跡付近に米軍が到達しています。中城村では4月23日頃まで地上戦が繰り広げられています。特に、北上原、南上原、和宇慶、伊集付近では多数の死傷者を出しています。
日本軍は、北上原の161.8高地や宜野湾の神山、大山にある陣地を米軍の動きをけん制することを目的に前進陣地と位置付けました。その南側の、和宇慶-南上原-我如古(宜野湾)-大謝名(宜野湾)を結ぶ線上は、敵の進攻を阻止することを目的とした主陣地としていました。
戦後の復興の歩み
中城村の復興
終戦直後、戦闘が激しかった南上原周辺は多くの遺骨が散乱していたそうで、住民がこれらを収集し、爆弾によってできた窪みに遺骨を集めていました。1951年に地元の青年会が中心となってブロック造りの「糸蒲の塔」を建立しました。1969年には、塔の建替えが行われており、現在、遺骨は糸満市摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に納められています。
他にも戦後、県外や海外に居住していた沖縄県人の多くが、地元へ引き揚げることになりました。1946年8月17日から同年の12月まで引揚者を受け入れており、その数は、約17万人にも及び、その内の約10万人が中城村の久場崎に上陸しました。ブラウンビーチとも呼ばれた久場崎海岸には浮桟橋が建設され、集落のあった場所には収容所が建てられました。引揚者は、上陸した後は、一定期間収容所に入り、その後故郷へ帰っていきました。
激しい戦闘のあった161.8高地陣地は、2014年3月に中城村で初の「沖縄戦に関する遺跡」として村文化財に指定されています。