日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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北谷町

戦争被害の状況

戦争と北谷の人々

1945年沖縄本島上陸に先立ち艦船から一斉に攻撃が開始され砲弾やロケット弾など10万発以上(畳1枚の広さに1発の割合)が撃ち込まれ、上空では、機銃掃射を浴びせ、約55万人の兵員が北谷村から読谷村の西海岸一帯から沖縄本島への上陸を開始しました。
住民を巻き込んだ地上戦は、空からの攻撃や海からの艦砲射撃に加え陸上では、銃や大砲、火炎放射器に狙われ「鉄の暴風」が吹き荒れ県民、日本兵、米軍等合わせた20万人(県民の4人に1人)が犠牲となる戦いが繰り広げられました。
米軍戦史には、「ありったけの地獄を集めた」凄絶悲惨な攻防戦と記されています。
 4月1日の米軍上陸によって、「北谷村」全域が占領地となり、農村の肥沃で美しい水田風景は、一転して米軍兵舎や飛行場へと容姿を変えていきます。
 村民は、退去先の北部に避難した者、4月1日に捕虜となり難民収容所で、戦後生活をスタートさせた者、戦闘に巻き込まれながら逃げ周り捕虜となった者など各地で戦後生活をスタートさせました。沖縄戦により村民の人口15%の2,323人が犠牲になりました。 
「上陸前の西海岸は、米軍の軍艦で埋め尽くされ海岸が真黒に見えた。軍艦の上を飛び越えケラマ(慶良間諸島)まで行けるぐらい軍艦がびっしりだった、その様子は不気味だった」といいます。

北谷から読谷の西海岸一帯を埋め尽くす軍艦(沖縄県公文書館所蔵)
北谷村砂辺を上陸する米軍(海に軍艦、田畑を滑する戦車)(沖縄県公文書館所蔵)

戦後の復興の歩み

帰村と戦後復興(戦後のあゆみ)
 1945年10月30日終戦後、島民に移動が許可されると人々は、元の住居地に帰っていきましたが、基地建設が進んでいた北谷村には 帰村の許可はおりず、他市町村に遅れること1年の1946年10月22日、北谷村内の一部地域へ移動が許可されました。住民移動を促進するため先遣隊事務所を設置し、派出所や販売所、診療所などの公共施設の整備、初等学校も開校に向け準備が始まりました。
大多数の村民は1947年中に帰村しましたが、平坦部の良好な土地は米軍に接収されているため、村民は起伏の激しい山間谷間の地での生活を余儀なくされました。また、土地の大部分を基地に占有されていることから生活の見通しが立たないと帰郷を見合わせる者もいました。
 嘉手納地区の住民は、整備拡張された嘉手納基地内が全面立入禁止となり、村役所への道路が遮断され、不便を強いられた住民の間から分村の世論が高まり北谷村議会から沖縄民政府知事宛てに陳情書が提出され1948年、嘉手納地区の分村が決定し「嘉手納村が誕生」しました。
 1972年の沖縄の本土復帰当時の北谷町は、町面積の約65%が米軍基地に占められ国道58号の沿線にありなら、国道の両側大部分が米軍基地に占められていました。北谷町はかつて、「顔のない町」と言われていましたが、米軍基地返還と埋め立てによるまちづくり計画、基地依存経済からの脱却を進め県内外から多くの人が集まる海を生かした都市型リゾート地として注目されています。
 現在も町面積の51.6%を米軍基地が占める中、北谷町の復興、まちづくりは、現在も続いています。平和であることがまちづくりの原点であるとの考えのもと、復興の第一歩を踏み出した10月22日を「北谷町民平和の日」と定め、「平和で、誇りある」北谷町を目指しています。

1945年キャンプフォスターのハンビー飛行場(沖縄県公文書館所蔵)
1988年基地返還後の北前(北谷町公文書館所蔵)
1990年代後半まちづくりが進む北前(北谷町公文書館所蔵)

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