日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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沖縄市

戦争被害の状況

 
 沖縄戦では、戦前期におよそ18,000人を数えた人口の三分の一に当たる5,300人余が戦争の犠牲となり、西原(後の美里)では「集団自決」という悲劇が起きるなど、凄惨な戦争は住民に大きな爪痕を残しました。また、県下でも越来村・美里村(後の沖縄市)は移民者が多く、サインパンやテニアンなど南洋諸島でも両村の移民者の多くが犠牲となりました。
昭和20年(1945年)4月1日、米軍は中部西海岸から沖縄本島への上陸を開始し、4月5日頃には、市域は米軍の占領下に置かれました。嘉間良に設置された難民収容所を中心に、6月6日に古謝の収容所では小学校が開校され、嘉間良では翌7日には村長・助役選挙が行わるなど、いち早く戦後への道を歩み始めました。

戦後の復興の歩み

 昭和23年(1948年)と翌24年の二度の台風襲来により、施設の大半を破壊された米軍は、6,000万ドルという莫大な基地建設予算を投入し、本格的な基地建設に着手しました。
その結果、県内外から軍作業などの職を求めて多くの人々が集まり、飲食店やお土産店、質屋、楽器店などが建ち並び、基地に沿うように帯状の市街地が形成されました。基地の門前町として、発展をとげましたが、東洋一ともされる嘉手納空軍基地に隣接しているため、基地から派生する事件事故が頻発していました。そうした中、昭和45年(1970年)12月20日には、米軍人による民間人への交通事故処理に端を発した米軍車輛焼き討ち事件、いわゆる「コザ暴動」が発生しました。同事件は長期にわたって異民族統治下にあった沖縄県民の人権拡大に寄与するとともに、復帰運動にさらなる拍車をかけたといわれます。

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