日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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那覇市

戦争被害の状況

多くの住民が戦闘に巻き込まれ犠牲となる
 1944年10月10日早朝、沖縄本島西の海上に集結した米海軍航空母艦から那覇を目指して飛び立ったグラマン戦闘機などの艦載機は、小禄の海軍飛行場や那覇港などの軍事拠点を攻撃しました。いわゆる10・10空襲です。その後、米軍の攻撃は市街地にもおよび、この空襲で旧那覇市内の約90%が消失しました。
 約半年後の1945年4月1日には、米軍が読谷・嘉手納の海岸に上陸し、日本国内唯一の住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦が始まりました。米軍は上陸後、沖縄本島を南北に分断し、日本軍の司令部が置かれた首里を目指して南下しました。首里を背後に守りを固めた日本軍は、中部戦線で米軍と激しい攻防戦を繰りひろげましたが、5月中旬以降は首里にも多くの砲弾が撃ち込まれ、5月下旬には首里を放棄し、南部撤退を開始しました。米軍は首里を制圧し、さらに日本軍を追撃したため、南部地域に避難していた多くの住民が戦闘に巻き込まれ、一般住民の死者が増大しました。

10・10空襲前の那覇(那覇市歴史博物館提供)
10・10空襲/猛火に包まれる那覇(那覇市歴史博物館提供)

戦後の復興の歩み

戦後の那覇は壺屋から始まった
 1944年10月10日のいわゆる10・10空襲で、旧那覇市内の約90%が消失しましたが、焼物の町壺屋は幸い大きな被害がありませんでした。
戦争で何もかも失った住民には、まず食事をするための日用雑貨が必要だったため、米軍は食器や鍋、釜などの生活物資製造を目的に、収容所に集められていた壺屋の陶工たち103人を先遣隊として壺屋に戻しました。終戦後、那覇市はまだ解放されておらず、一般住民として那覇入りを果たしたのは壺屋の陶工たちが最初でした。
彼らは半壊した家を修復しながら、茶碗や土瓶などなどを作り、無償で配布しました。コーラ瓶を半分に割ったものや空き缶を食器として仕様していた住民は、焼き物の温かさに触れ、喜んだということです。このように、戦後の那覇は、壺屋から始まりました。
 戦後の那覇は、かつての街はずれであった壺屋を中心に人口が急増し、市場や芝居小屋など娯楽施設ができ、牧志、開南などへと街が広がっていきました。
 現在も壺屋の町は、沖縄の「やちむん(焼物)」の中心的窯場として、点在する陶器工房とともに情緒あふれる街並みを形作っています。

戦後、入市当時の壺屋風景(那覇市歴史博物館提供)
那覇(遠景)/戦争の爪跡が残る那覇市の情景(那覇市歴史博物館提供)

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