日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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大崎町

戦争被害の状況

太平洋戦争末期の郷土の様相
 昭和19年の後半頃から敵機が来るようになった。空襲が激しくなることが予想されたからか,小学校が分散授業になりました。。
大崎小学校分散授業(昭和19年10月)宮園・牧・牧ノ内・木入道・崎園は,宮園(現・公民館のところ)に通っていました。
昭和20年5月に2回,崎園が空襲されて火事になりました。(1回目・4家屋,2回目・2家屋)放牧してある軍馬がねらわれましたが,散り散りに逃げた様子でした。分散授業の宮園校舎からの帰宅途中に機銃掃射に遭い,田んぼの溝に隠れて、無事難を逃れた児童もいたようです。大崎への攻撃は機銃掃射が主でしたが、トラックを狙った爆弾攻撃があった例が1件確認されています。
地域住民への本土決戦の情報は無かったようです。しかし、オリンピック作戦に向けて志布志湾岸には多くの日本兵が来て、軍事施設の建設に取り掛かっていたので、その雰囲気で志布志湾からの上陸が想定されていることは感じるとることができたと言われています。トーチカなどのコンクリート製の軍事施設は,昭和18年には構築されていたようです。19年に配属された積部隊(86師団)は,壕を掘る仕事をしていました。20年5~6月には壕がある程度出来上がったのか,部隊は都城方面へ移動していきました。積部隊は,小隊ごとに行動しており、1軒の家に15人程度が駐宿していました。小隊長は大学2・3年生で、隊員は主に北部九州から集められた人々が多いようでした。中には外国人もいました。
吹切という場所にはもともと隔離病棟がありましたが,当時は海軍が使っていたようです。吹切には,探照灯がありました。その探照灯は,串良の大塚山と高山の波見と大崎の吹切にあり3点から光を出し,鹿屋航空基地から飛び立つ飛行機の角度を測っていたようです。
崎園の砲台から試験射撃を行った時に横瀬の浜塚あたりに弾が落ちました。その場所が池のような形で後々まで残っていました。射撃音はすごく大きかったのを覚えています。
食料や生活用品などの不足を感じたのは,戦時中よりも戦後だったようです。きのこ・竹の子や野草などを食べて飢えをしのんでいたという話もあります。