宮崎市
戦争被害の状況
(住民の方の証言です)
恐ろしい想出 住吉地区遺族会 新原 ヱイ子
馬車が有ったものですから、父は朝早くから那珂の山奥へ軍事作業です。私と兄嫁は田畑が有ったものですから、又、供出米の割当も有り、嫌が応でも働かなくてはなりません。兄も遠い戦地から心配して居た事でしょう。父は軍事作業、兄嫁と2人は木1本生えてない広い田園地帯へ移住された四国の方々で一杯でした。母は孫のお守り。3人も抱えて空襲で防空壕に入ったり出たり、どんなに苦労した事でしょう。今思うと気の毒で可哀想でなりません。オデコに大きなコブを作った事も有りました。どんなに痛かった事でしょう。私達も作業を怠ればすぐ草が伸び背丈を越すのです。 学校のサイレンは一日中鳴り止みません。余り鳴り続くので空を見渡すと一面の空に小さな鳥の群れ。だんだん大きくなります。なんと敵機なんです。 数えたら30機をすぐ越しました。サァ大変「今日こそ命はないかも」と兄嫁に言うなり土手のタコ坪に木の枝を被り入りました。山奥での父の事、家で留守番3人の小さな孫の世話をして居る母の事、一心に手を合せ神仏に祈りました。頭上を敵機がいつ爆弾を落とすかわかりません。暫くするとドーンと大きな音、大きな山の向こうで何も見えませんが「宮崎空襲」です。大きな音だけが引っきりなしに鳴り響きます。どんなに大変な事でしょう。生きた心地は致しません。身も心も縮まって体が動きません。 ようやく夕方になり敵機も去ったのでしょう。皆さんも大きなタメ息をつき乍ら無事を喜び合い、家路へと急ぎました。
馬車と共に父も帰りどんなに嬉しかった事か!暗い電燈の下で3人の子供の喜ぶ顔を見て、馳走こそ無かったが、こんなに美味しいご飯は未だに食べた事が有りません。父は宮崎の焼ける様子を山奥で兵隊さん達と眺めたとの事。恐ろしい勢いで燃える様子は何と言う事も出来ないと言って居りました。
お国の為とは言え、1人の兄を戦の庭に送り出し、老いた父も全身の力を出して頑張りました。「今からの女性は子供の事や教養の面で学問が大切。兄ちゃんが働いて女学校に出すから勉強せよ」と優しく励ましてくれたたった1人の優しい兄。遠い遠い南の島フィリピンで戦死し薄暗いジャングルに眠って居ります。花一輪も手向ける事も出来ません。流す泪も有りません。
小学校高等科を卒業。モンぺに身を包み只一心にお国の為に働きました。恐ろしい想い出ばかりの青春時代。戦争ほど辛いものは有りません。永久に平和が続きます事を心から願って止みません。世界中の若者達が手を取り合って仲よく楽しく。一つの大きな世界です。どこへ行っても楽しい歌声一杯の若者達があふれて、数多くの尊い命を奪う戦争が二度と起こらないことを祈るばかりです。
戦後の復興の歩み
宮崎市の歩み
宮崎の町の中心部の70%は、戦前すでに、土地区画整理組合の手で、それぞれの区域が整備されていた。それが第二次大戦で、空襲戦火によって焼失した。
そこで戦後いち早く、戦災復興都市計画・土地区画整理事業を決定、昭和21年から始めて10年がかりで中心街の整備を昭和31年に終わった。
戦後、海外からの引き揚げ者は昭和21、22年に集中、職を求める人々で都市の人口は急増した。昭和25年の朝鮮動乱で、米軍特需で産業界は沸き、人口は都市に集中した。
当市も都市集中化が波及して住宅不足を招き、住宅は市街地周辺の農村へ急速に伸びてきたので、昭和27年に北部土地区画整理(352.0ha)と昭和32年から牟田町土地区画整理(21.4ha)の2事業に着手、大学用地や高校用地を確保し、昭和50年に町界・町名の整理を終えることができた。
一方、昔ながらの狭い道に発展してきた江南地区の都市改造事業に取り組み、昭和39年度から10カ年計画で南部土地区画整理事業(73.4ha)を進め、モータリゼーション時代にふさわしい街路に生まれ変わった。