日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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宇佐市

戦争被害の状況

宇佐海軍航空隊と空襲
 大分県宇佐市には、昭和14(1939)年10月から昭和20(1945)年5月までの約6年間、艦上攻撃機、艦上爆撃機の搭乗員養成のための練習航空隊として「宇佐海軍航空隊」が置かれました。太平洋戦争末期には、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練基地として機能しています。昭和19(1944)年7月、サイパン島が陥落して日本の絶対国防圏の一角が破れると、11月以降アメリカ軍爆撃機による本土空襲が本格化します。翌年になると、マリアナ諸島の基地などからの爆撃機「B-29」や米軍艦載機(軍艦に搭載する飛行機)により、日本本土各地が空襲を受けるようになりました。「B-29」は全長30m、全幅43mにおよぶ大型の爆撃機で、日本各地を爆撃し大きな被害を与えています。
昭和20年3月18日、宇佐は米軍艦載機による最初の空襲を受けました。この日は、大分や佐伯など県内各地、さらに鹿児島の鹿屋(かのや)など九州各地が初空襲を受けています。4月21日には「B-29」による宇佐への初空襲で、航空隊関係者だけでも300人以上の犠牲者が出ました。江(え)須賀(すか)地区の蓮光寺(れんこうじ)生き残り門や、爆弾池などがこのときの遺構です。
6月に沖縄がアメリカ軍の手に落ちてからは、沖縄からの爆撃機「B-24」などによる空襲もはじまり、航空隊だけでなく、周辺地区や住民にまで大きな被害が及びました。その後も終戦直前の8月8日まで、多くの空襲がありました。宇佐への空襲による犠牲者は、宇佐空隊員に民間人も含めると400人を超えるといわれています。

3月18日の空襲写真(米軍撮影):格納庫周辺から煙が上がっている。(宇佐市教育委員会所蔵)

戦後の復興の歩み

現在も残る空襲の傷あと
 昭和20年8月15日に終戦を迎えた時、宇佐海軍航空隊の敷地は空襲による爆弾で壊滅的な状況でした。終戦時の記録では、宇佐基地には6,000人近くの隊員と、零戦24機、天山(てんざん)艦攻26機、九九艦爆7機など、100機近い飛行機がありました。
兵舎や格納庫など多くの建物が破壊され、敷地内の滑走路や飛行機を並べていたエプロンなどは爆弾によるいくつもの穴が開いた状態でした。
滑走路やエプロンに敷かれていたコンクリートなどは、周辺の住民がツルハシや大きなノミなどで割って除き、穴は埋め戻してもとの水田に戻されました。現在は圃場(ほじょう)整備が行われており、当時の面影はだんだん少なくなっています。滑走路跡は、現在は一般道路として残り、かつての航空隊の敷地の西端を南北に走っています。航空隊開隊当初、滑走路の幅30m、長さ1150mでしたが、太平洋戦争開戦後、戦局が悪化して宇佐航空隊が前線基地となると、「一式陸上攻撃機」など大型の軍用機の離着陸に備えて滑走路の拡張が急務となりました。昭和19年から拡張が始まり、終戦時には幅80m、長さ1800mでした。現在、滑走路跡と重なるフラワーロード2号線の道路幅は約16mなので、滑走路は5倍の幅となります。終戦後、滑走路のコンクリートは剥がされ、航空隊ができる前の水田に戻りました。
宇佐から特攻出撃する隊員たちは、艦攻隊が鹿児島県串良(くしら)基地へ、艦爆隊が同じく鹿児島県の国分(こくぶ)基地へ向かい、そこで最終的な出撃命令を受けて南方の沖縄方面を目指しました。隊員たちは滑走路を北に向かって宇佐の飛行場から飛び立ち、海の上を旋回して見送る人々に翼を上下に振り別れの挨拶をして南へ向かったそうです。滑走路から北へ延びてJR日豊本線をまたぐ跨(こ)線(せん)橋(きょう)の角度は、偶然にも滑走路から飛行機が離陸するときの角度と同じようだと話す元隊員もいました。
現在道路わきには、出撃する隊員を見送る人たちをイメージしたモニュメントが72基設置されています。また、平成27(2015)年に友好のしるしとして米国から贈られたハナミズキが植えられています。

昭和20年10月27日 宇佐海軍航空隊主要施設(北側から撮影)(宇佐市教育委員会所蔵)
宇佐海軍航空隊滑走路跡(宇佐市教育委員会所蔵)

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