日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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津久見市

戦争被害の状況

保戸島空襲と最後の特攻隊長
 太平洋戦争末期、日本軍は、1945(昭和20)年6月23日の沖縄決戦での敗北により、本土決戦も覚悟せざるをえない状況となっていきました。その年の3月18日には、大分県でも初空襲を受け、当時航空隊のあった佐伯、大分、宇佐の3か所が爆撃されたのです。
津久見地域では、こうした敗戦濃厚となった混乱の中、終戦わずか3週間前となる7月25日午前10時頃、大分県北海部郡保戸島村(現・津久見市保戸島)において、アメリカ軍戦闘機により投下された爆弾が島の国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)の校舎を直撃、授業中の教師、児童合わせて127名が即死、75名の児童が重軽傷を負った「保戸島空襲」の惨劇がおこりました。当時の保戸島には豊後水道を通って瀬戸内海に侵入する連合軍の潜水艦を阻むため、島の一番高い山(遠見山)の頂上に海軍の施設(レーダー受信基地等)が置かれており、軍事施設と間違えて爆撃されたといわれていますが、校舎に逃げた児童らが機銃掃射で狙われており、真実は定かではありません。同校体育館入口横には慰霊碑が建立され、亡くなった児童及び教師の名が刻まれており、毎年慰霊祭が執り行われています。
「玉音放送」が戦争の終結を告げたあと、大分海運航空隊基地(大分市の現・大洲総合運動公園内)から飛び立った特攻隊員たちがいました。「戦史」の記録には残されていない最後の特攻です。
その特攻において、隊長として出撃命令を受けたのは、津久見出身の中津留達雄大尉(享年23歳)でした。
特攻を命じたのは、宇垣纏第五航空艦隊司令長官海軍中将でした。宇垣中将は終戦を知りながらも、中津留大尉をはじめ、11機の艦上爆撃機「彗星」と22人の若者を道連れに、沖縄海域に出撃していきました。
しかし、この特攻隊による米軍側の損害はなかったとされています。中津留大尉の操縦していた機体は、米軍基地より少し離れた岩礁に激突したとされています。終戦を知っていた中津留大尉が、終戦後の攻撃に疑問を抱き、戦後の日本のことを考え、基地を避け自爆するという決断をしたのではないかと考えられています。

国民学校(現保戸島小学校)校舎(津久見市教育委員会所蔵)
保戸島空襲(戦没学徒)慰霊碑(津久見市教育委員会所蔵)
中津留大尉(津久見市教育委員会所蔵)
中津留大尉慰霊碑(津久見市教育委員会所蔵)