日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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長与町

戦争被害の状況

当時の長与町の状況
 長与町(当時、長与村)の原爆による被害は大きく、爆風や熱線の影響で多くの建物が損壊、焼失し、多くの人々がガラス破片等で外傷を負いました。長与村は爆心地から近かったこともあり、長崎市からの多くの負傷者や避難者を受け入れました。
 現在の道ノ尾駅前、高田小学校、長与小学校等には、臨時の救護所が設けれ、救護活動が行われました。
 道ノ尾駅は、爆風で窓ガラスが破損したものの、駅舎は無事であったことから負傷者の救護にあたる救援列車の起点となりました。

救援列車の基点となった長与町
 当時の長与駅の近くに門司鉄道管理局長崎管理部が疎開してきており、原爆投下直後から同管理部において救援列車の運転計画が立てられ、道ノ尾駅を基点として、原子野と化した長崎への救援列車が運行されました。
 長与駅で被災した下り列車が、8月9日の正午過ぎに長与駅を出発し、最初の救援列車として被災者の救援にあたりました。
 救援列車は爆心地から1.4㎞程離れた、道ノ尾駅と浦上駅の中間にある照圓寺(しょうえんじ)付近でこれ以上進むことが難しくなり、そこで負傷者を収容し、諫早へ向かいました。
 同じく、長与駅で被災した上り列車が9日最後の救援列車として運行するなど、8月9日に4本の救援列車が奔走し、駅付近にいた約3,500人もの負傷者を諫早、大村、川棚の各海軍病院等へ運びました。

長与国民学校高田分校の様子
 1915年(大正4年)創設の長与国民学校高田分校(現在の高田小学校)は、原爆投下時も創設当時の建物が使用されており、その教室には少なくとも100人の負傷者が収容されました。
 高田分校では、8月14日に針尾海兵団から派遣された救護隊が到着するまでの6日間、婦人会が中心となって負傷者の救護が行われました。その後、高田分校は8月19日に閉鎖され、残った患者は長崎の新興善救護病院に移されました。

長与国民学校の様子
 長与国民学校(現在の長与小学校)の校舎は爆風で窓枠が吹き飛ばされ、窓ガラスが破損しました。
 救護所となった同国民学校には、8月9日の夕方頃から多数の負傷者が運び込まれ、又は避難してきたことで、教室8室と講堂は負傷者でいっぱいとなりました。
 当時、長与村の医師は召集に応じて軍務についていました。そのため、負傷者の手当ては元看護兵であった男性と婦人会などにより行われました。婦人会は、負傷者への食べ物の差し入れも行っていました。
 翌10日には佐賀陸軍病院から派遣された日赤第713救護班の一隊が到着して救護活動を開始しました。

広瀬酒本舗での救援・救護活動
 爆心地から約6.5キロメートルに位置する広瀬酒本舗では、原爆投下の翌日から警防団の要請を受け、無償での炊き出しが行われました。
 戦時下により鉄釜が供出されていたため、酒造場にある最も小さな麹づくり用の酒釜(直径約70・深さ約60センチメートル)を用いて、1回の炊き出しで約500食分を用意したと言われています。
 炊き出しは、1日に3回、約10日間続き、使った米は約1,500俵にも上りました。
 当時備蓄していた米を全て放出した廣(「まだれ」に「黄」)瀬家はその後、自分たちも食べるものに困るほどであったといいます。
 また、広瀬酒本舗では、炊き出しに加え、仕入れていた焼酎も救護所へ提供しました。
 当時、長与村の救護所に医師はおらず、薬もほとんどなかったことから、応急措置として、この焼酎が消毒用途で使われたといいます。
 焼酎は、38個の焼酎甕に入れて提供され、量にして約1,000?に上りました。

道ノ尾駅:「原爆救援列車」の説明板と写真のモニュメントが設置されている(長与町役場所蔵)
長与駅:「原爆救援列車」の説明板と写真のモニュメントが設置されている(長与町釈バ所蔵)
高田分校:教室が2つの小さな建物で、現在の九州電力長与変電所の隣地にあった(長与町役場所蔵)
広瀬酒本舗 :円柱状の煉瓦造りの煙突は、米軍機による機銃掃射の弾痕が残る(銘板:長与町役場所蔵、煙突:広瀬酒本舗須所蔵)

戦後の復興の歩み

昭和・終戦以降の長与村の足取り
 1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ、長かった戦争がついに終わりました。
 灯火管制が解け、長与村の家々には明るく電灯がともりましたが、生活物資の不足は終戦後も依然として厳しく続きました。
 特に食料の不足は深刻な問題であり、長与村ではこの問題解決の一助として、食料増産費が20年度予算に組み込まれ、芋作に間に合うように三町歩(約3ヘクタール)の田畑事業が実施されました。
 こうした中、長与村にもやがて復員者、引揚者の波が到来し、戦前6千数百人だった人口は、戦中の疎開者も含めて1万人を突破しました。
 1958年(昭和33年)に長与村役場庁舎が完成し、新農山漁村建設の特別指定村として発足することとなり、今では長与町の名産、シンボルでもある「みかん」の生産が盛んになりました。

忠霊塔
 吉無田郷内園の忠霊塔公園にある忠霊塔は、第2次世界大戦で長与村も多くの犠牲者を出したことから、これら殉国の英霊を慰めるために村の有志で建立されたものです。
 村費、寄附金の総額126万9,485円の経費で1956年(昭和31年)に竣工したもので、戊辰の役以来の戦で戦死・病死した軍人・軍属のほか、徴用あるいは学徒動員として活動中に爆弾等で死亡した者を含め、532柱の霊が合祀されています。

原爆受難者之墓
 1967年(昭和42年)、長与国民学校の救護所における原爆死没者の霊を弔うために、皆前墓地に原爆受難者之墓が建立されました。
 毎年8月9日に、墓前では犠牲者の冥福と恒久平和を願い、慰霊祭が行われています。

これからの恒久平和を願って
 長与町では、核兵器の廃絶と恒久平和を願って、1994(平成6)年に「平和で安全な町」宣言を行い、戦後50周年事業では、中尾城公園内に「愛・二人」祈念碑を建立しました。
 音楽を通して平和の尊さを次世代に伝える「平和コンサートinながよ」や核兵器の恐ろしさや原爆での被害の様子を展示した「原爆展」を開催するなど、様々な活動を通して、平和活動を行っています。

原爆受難者之墓:慰霊祭には、長崎原爆被爆者の会長与支部らが参加している。
「愛・二人」祈念碑:男女の像を「メビウスの輪」の中に配し、永遠の平和をイメージしている(長与町役場所蔵)

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