南島原市
戦争被害の状況
戦時下の南島原市-戦争時の日常と変容-
当時の南島原市周辺は、農業地域であったが、労働力等の不足により生産力が低下しました。また果樹などの栽培を禁止し、主食となる、米、芋等の栽培に変わっていきました。しかし米の提供量は栽培量よりも多く、食べ物が不足していきました。
やがて、のどかな島原半島でも戦争の被害をじわじわと受けはじめ、爆撃機が通過するようになり、当時の記録によると、有家町で3度の爆撃、銃撃、口之津町なども爆撃を受けました。有家町では爆弾の直撃と火災により、9名が亡くなり、民家など14棟が被害に遭いました。
また駅や波止場では出征を見送る人びとで埋め尽くされる光景も見られました。多くの若者が戦場に赴きましたが、帰郷できなかった人も多くいました。
長崎市に原爆が投下されたとき、大きな音とともに赤黒く不気味な空の色ときのこ雲を多くの人々が目にしました。当時はラジオがある家は少なく、原爆とわかったのはしばらくしてからのことでした。
※有家町郷土史、島原・雲仙・南島原の昭和(写真アルバム)から引用
戦後の復興の歩み
戦後復興から現代へ-南島原市の歩み-
戦争が終わった数年は衣食住のすべてが不足しました。戦後、島原半島はまず基本的なインフラの復旧に着手し、電力や水道など生活に必要不可欠なサービスの安定供給を目指しました。また、農業を中心とする産業復興を進め、特に島原半島での農業は、復興の象徴となりました。農地改革により、多くの農民が土地を手にし、生計を立てることができるようになりました。
教育面でも、戦災で中断されていた学校教育の再開に力を入れ、子供たちが安心して学べる環境を作りました。これにより、未来を担う若者たちの育成に大きく貢献しました。
さらに、地域コミュニティの再構築にも注力。戦争で失われた地域の絆を取り戻すため、祭りや地域行事を復活させ、住民間の交流を深める場を設けました。これらの取り組みは、住民の心の復興にも大きな役割を果たしました。
今日において、その復興の歴史は、平和の大切さを次世代に伝えるための教訓となっています。