諫早市
戦争被害の状況
傷痍軍人の社会復帰施設
昭和15(1940)年3月、長崎県北高来郡諫早町県立農学校(現在の諫早市立石町諫早農業高校)内に長崎県傷痍軍人職業補導所が開所しました。設立趣旨は『長崎縣傷痍軍人職業補導所案内』によると「傷痍疾病のため元の職業に復帰することが困難となった人はその身躰に適した新職業に転換しなければなりません。(中略)比較的重度の傷痍軍人に對し長期の職業補導を行ふ國立傷痍軍人職業補導所が二箇所(小倉市及堺市)設置せられ、各府縣に比較的輕度の傷痍軍人のために短期の職業補導所が各府縣營として設置される事になったのであります。長崎縣傷痍軍人職業補導所も同一趣旨を以て設立されたもので、縣内居住の傷痍軍人諸氏が廣く本施設を利用して、職業を通じての再起奉公の道を進まれんことを希望いたします。」(原文)とあります。補導科目は所内教育として、農業科(4ヶ月)・ミシン裁縫科(1年以内)・事務科(4ヶ月)の3科と所外委託教育がありました。しかしながら、何故県立農学校が候補地になったのか、いつ職業補導所が閉鎖となったか、どれぐらいの人数が入所したかなど詳細は分かっていません。
また、高城公園内には、北高傷痍軍人会により「傷痍軍人之碑」が昭和57年(1982)建立されています。碑のプレートには、会員207名、物故者60名、計267名が刻まれています。
戦後の復興の歩み
県下一の農業地へ
昭和17(1942)年4月、民間機のパイロット養成所として、長崎地方航空機乗員養成所(川内町・小野島町)が開所します。その後、昭和19(1944)年3月、同所に大村海軍航空隊諫早分遣隊(昭和20年3月、独立部隊となる。)が併置されることとなり、海軍管轄の軍事施設となりますが、米軍による大きな空襲も無く終戦を迎え、8月23日に解散します。9月24日に長崎地方航空機乗員養成所校舎跡に連合国軍の駐屯が始まり、昭和21(1946)年9月10日、連合国軍の駐屯が終了します。その後校舎は、昭和22(1947)年、長崎医科大学付属薬学部専門部小野島校舎(昭和26年、長崎市へ移転)、昭和24(1949)年、小野中学校(昭和38年、新校舎建設に伴い移転)として利用されました。その跡地には、平成6(1994)年、ゆうゆうランド干拓の里が開設され、干拓の歴史などを伝えています。また、滑走路整備のために近くの山から運ばれた大量の土砂は取り除かれ、田地に復旧され、格納庫などは民間に払い下げられました。
この付近では、昭和32(1957)年7月25日に発生した諫早大水害(諫早市の死者・行方不明者630名)により一週間程湛水しましたが復旧。その後、平成20(2008)年国営諫早湾干拓事業が完工し、県下随一の農業地となっています。