長崎市
戦争被害の状況
人類史上2発目の原子爆弾がさく裂
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎の上空で人類史上2発目の原子爆弾がさく裂しました。爆発とともに、強烈な熱線、爆風、放射線を放出し当時の人口24万人のうち、その年の末までに15万人が死傷しました。
辛うじて死を免れた人も、放射線が長い年月をかけて人体を蝕み、80年経った現在もなお後障害に苦しんでいます。
このように原子爆弾は、多くの人たちの生命を奪い、家族を失わせ、まちを破壊し尽くしただけでなく、生き残った人の心と体に深い傷を刻み込みました。


戦後の復興の歩み
長崎のまちの復興
原子爆弾によって壊滅的な被害を受けた長崎は、当時70年は草木も生えない、といわれていましたが、緑に囲まれたまちとなりました。
原爆投下からの最初の10年は、長崎国際文化都市建設法という特別法のもと、政府によって壊滅状態にあった街の最低限の復興作業が施されました。
そしてその10年目となる1955年、爆心地を望む丘の上に、復興の象徴として現在の原爆資料館の前身となる国際文化会館が建設され、平和祈念像が設置されました。
さらにその後に進められ長崎国際文化センター建設計画に沿って図書館、美術博物館、公会堂、水族館などの文化施設が建設されました。
このように長期にわたる先人たちの地道な復興作業によって、廃墟から現在の長崎のまちがつくり上げられました。

