高知市
戦争被害の状況
高知大空襲
高知市は昭和20(1945)年1月から7月までの間に,8回の空襲を受けました。その中でも一番被害の大きかったものは7月4日午前2時頃の空襲で「高知大空襲」と呼ばれています。
サイパンを飛び立った125機のB29爆撃機が高知市中心部の上空に飛来し,11万人の市民に対して焼夷弾を18万発,焼夷爆弾を1,251発も落としたと記録されています。わずか1時間ほどの攻撃でしたが,市内中心部はじゅうたん爆撃によって焼け野原と化し,450人近い人が亡くなりました。


戦後の復興の歩み
よさこいと共に復興
高知市の中心部が焦土と化した終戦の翌年,昭和21(1946)年12月21日に,安政の大地震から92年ぶりとなるマグニチュード8.1の南海大地震が高知の街を襲いました。かろうじて焼け残っていた建物や建てたばかりのバラック住宅が倒壊し,地盤沈下と津波も発生。戦後復興の真っただ中に起きた大地震に打ちひしがれた当時の人々の気持ちは想像に難くありません。
戦災に震災,そして昭和28年頃の全国的な不況に沈む市民の気持ちを明るくし,復興への意欲を盛り立てようと昭和29(1954)年に始まったのが「よさこい祭り」です。
高知に元々あった民謡であるよさこい節に軽快なリズムをつけ,振り付けをして,第1回よさこい祭りが開催されました。年にお米が二度とれる南国土佐のシンボルとして,手にはスズメ追いの鳴子を持たせました。
その後もサンバ調やレゲエ調など,自由なアレンジを許容してきたよさこい祭り。戦後復興,震災復興のために生まれたよさこいは今,日本各地,そして世界に広がっています。

