日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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東広島市

戦争被害の状況

東広島市と原爆の関わり
 1945(昭和20)年8月6日8時15分、広島市に原子爆弾が投下されました。東広島市から仕事や学徒動員で広島市へ行っていた人も、多く被爆しました。また、壊滅状態となった広島市へ救援に向かった人もいました。

賀北部隊
 太平洋戦争の末期になると、本土決戦に備えて各地域に特設警備隊が編成されました。広島県内には26隊が編成され、このうち賀茂郡北部の防衛隊である第14特設警備隊(中国第32050部隊)は、賀北部隊(かほくぶたい)と呼ばれていました。
 広島市に原子爆弾が投下されると、賀北部隊は急遽250名が召集され、翌7日の午前5時に西条駅を出発しました。海田市駅からは広島市へ徒歩で行軍し、負傷者の救護や死体の運搬・火葬などの作業に従事しました。救援活動は8月13日に終了しましたが、被爆直後の広島市に滞在したことで、多くの隊員が残留放射線によって被爆し、何十年も体調不良に苦しみました。

傷痍軍人広島療養所
 傷痍軍人広島療養所(現:東広島医療センター)は、戦争で負傷した軍人のための診療施設として1939(昭和14)年に西条町寺家に開設されました。
 広島市に原子爆弾が投下されたとき、療養所からも大きな爆発音とキノコ雲が確認されました。その後、広島市から被爆した負傷者が続々と列車で西条へ運び込まれ、療養所では多くの負傷者を収容し、2つの病棟をあてて治療を行いました。さらに、8月の早い時期に、外傷のない被爆者の白血球異常に気付き、患者として収容を始めました。
 また、原爆投下直後に警察署から広島市へ救護班を出動させるよう要請されたため、直ちに医師・看護師など約20名で救護班を編成し、救護用具と薬品を備えて広島市へ赴き、市内各地で数日間負傷者の治療など救護活動を行いました。

西条農学校
 西条農学校(現:広島県立西条農業高等学校)は、県内初の甲種農学校として1910(明治43)年に創設されました。校舎は西条栄町にあり、農業科、獣医畜産科などが設置されていましたが、戦時中は、学校のグラウンドは甘藷などの耕地に転用され、生徒は暗渠排水の敷設など農家への奉仕作業に従事し、学業よりも食糧増産が優先されていました。
 広島市に原子爆弾が投下されたとき、西条農学校は朝礼中で、生徒達は西方の山間から閃光と白煙が立ち上る姿を目撃しました。その日のうちに西条駅に多くの負傷者が運び込まれ、校内にいた生徒は、負傷者を学校の講堂や酒蔵へ運び入れたり、傷痍軍人広島療養所(現:東広島医療センター)へ担架で搬送したりしました。さらには賀北部隊に召集され、広島市内へ救援に赴いた生徒もいました。

賀茂高等女学校
 賀茂高等女学校(現:広島県立賀茂高等学校)は、1906(明治39)年に創設され、1910(明治43)年に高等女学校として県内で初めて認可されました。国民学校を卒業した女子が学科、裁縫、音楽などを学んでいましたが、戦時中は、授業は殆ど停止され、生徒は校舎の2階に設置された陸軍の被服廠や呉の軍需工場などへ動員されていました。また、千人針や軍隊への慰問袋などを制作することもありました。
 広島市に原子爆弾が投下されたとき、賀茂高等女学校でも校舎の窓から爆発の閃光とキノコ雲が目撃されました。終戦により校舎の被服廠は閉鎖し動員も解かれましたが、8月17日には、広島県知事と広島市長からの原爆被災救援の要請により「賀茂高女救援隊」を編成し、壊滅した広島市へ救護に赴くこととなりました。救援隊は、本川小学校などに設営された救護所で被爆者の治療の手伝いや救援炊事などに従事しました。

賀北部隊が集合した西条農学校跡地にある「賀北部隊原爆被災者救援之碑」⑴(市職員撮影)
賀北部隊が集合した西条農学校跡地にある「賀北部隊原爆被災者救援之碑」⑵(市職員撮影)

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