日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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大竹市

戦争被害の状況

(1)建物疎開のために広島へ向かった玖波・小方・大竹の「義勇隊」
 昭和19年に入り、太平洋戦争の戦況が悪化するなか、国民総動員のもと国民義勇隊が編成されました。
 昭和20年8月の初めに、玖波、小方、大竹の役場にそれぞれ、建物疎開の動員命令が出されました。動員開始日となる6日は、広島市以外のまちから約1万人が建物疎開作業に動員されることとなっていました。
 命令受けた玖波、小方、大竹の人たちは作業服に身を固め、玖波隊105人は玖波駅から、小方隊は86人のうち26人が玖波駅、60人が大竹駅から、大竹隊は798人が2便に分かれて大竹駅から電車で広島へと向かっていました。
 各隊は己斐駅到着後、小方隊は土橋・十日市付近へ、玖波隊は小網町付近へ、大竹隊の先発隊は、天満町付近に到着し、作業にとりかかろうとしていました。また、後発の大竹隊は、己斐駅から目的地の小網町に向かうため、己斐橋を渡って福島橋へと向かっていました。そして迎えた8時15分。原子爆弾の爆発により、まちは一瞬のうちに焦土と化し、玖波隊、小方隊、大竹隊先発隊ともに爆心地に近かったため、多くの行方不明者、負傷者を出しました。玖波隊と小方隊は大竹に帰ってきた人もいましたが、すぐに亡くなっていき、全滅状態となりました。大竹隊も先発隊の死者・負傷者が多く、80人を超える人が亡くなるなど、大きな被害を出しました。
(2)広島で散った大竹の若い命「動員学徒」
 昭和20年当時、大竹市域に住んでいた旧制中学生以上の学生は、ほとんど広島市の学校に通っていました。昭和20年には学徒動員令により、多くの学生が事業所・工場での作業や建物疎開に従事していました。当時は、労働者の4分の1が学徒動員の学生とも言われています。
 8月6日は、爆心地から1から2キロの範囲内で建物疎開の作業が行われていました。数万人もの学生が作業を行っているなか、原子爆弾が投下。爆心地から近かったこと、また、外で作業する生徒が多かったこともあり、多くの生徒が帰らぬ人となりました。6,000人以上の生徒が亡くなったなかで大竹市域の学生も120以上が犠牲となりました。

原爆死没者追悼・平和祈念式典(大竹市所蔵)
原爆死没者追悼・平和祈念式典(「叫魂」碑前)(大竹市所蔵)

戦後の復興の歩み

海兵団の設立
 第2次世界大戦中、大竹には海兵団が設立されました。海兵団とは主に新兵に基礎訓練をする機関で、隣接した潜水学校と合わせ約2万人もの関係者がいたと言われています。これは当時の人口より多いため、まさに海軍のまちの様相を呈していました。こうした海軍施設のため上水道が敷設され、今も市民に水を供給している防鹿水源地は海軍が建設したものです。整備された施設は戦後、引き上げ港や国立病院としての役割を担うことになり、一時期中学校や高校としても利用されました。その後、市の積極的な企業誘致により、この敷地に大規模な工場が誘致され、今でも続く一大石油化学コンビナートが形成され、新たな大竹の歴史を形作っています。

石油コンビナート工場群(夜間)(大竹市所蔵)
石油コンビナート工場群(昼間)(大竹市所蔵)