尾道市
戦争被害の状況
~失われた町並み~
尾道市の郊外では、原田と旧番所(久保と高須の町境)付近への単発による爆弾投下、向島では捕虜収容所、因島では旧日立造船への空襲と戦争の痕跡が拾われる中で、旧尾道地域にあっては無傷のままにあったように思われがちですが、この強制建物疎開の記憶と痕跡も痛々しくむなしい戦争の傷跡に違いありません。
建物疎開は空襲激化の戦争末期(昭和19年(1944年)暮れから)、空襲による火災の延焼を防ぐ目的として、主に重要な公共施設周辺の建物を解体撤去したもので、行政による非常時の名のもとの強制的なものであったことから「強制疎開」とも言われていました。
旧尾道町では、建物疎開は昭和20年(1945年)7月以降に始まり、建物を解体する前段において、瓦が1枚1枚外され、土壁がある程度までそぎ落とされたりした後、建物の柱に括りつけられた何本かの縄を男の人たちが引っ張って引き倒すというものでした。
現在の山陽本線南側だけでなく、北側も実施されていたという証言もあります。いずれにしても旧尾道町にとっての最大の建物疎開はこの鉄道(山陽本線)を守るために実施されたものだったようです。
終戦後、線路南側の現国道側の疎開跡にはガレキの広場が広がり、取り壊された家屋の残骸が放置される状態がしばらく続き、翌年の昭和21年(1946年)10月に国の事業として国道工事が始まり、昭和25年(1950年)4月に国道2号線が開通しました。(舗装は昭和27年(1952年)12月完成)
このように鉄道を守るために強制的に建物疎開された土地は、そのまま現在の国道2号線になっています。
*出展:「失われた風景」林良司著(2022年刊)より

