雲南市
戦争被害の状況
私の思い出 (廣澤英雄)
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争が始まりました。その頃私は小学生五年生でした。そうして昭和二十年八月十五日終戦になりその間四年間の戦争でした。
その間には日本の若い男子は徴兵で戦地に出兵し、多くの人が戦死され、又戦争にまき込まれ犠牲になられた多くの国民の方や、空襲などで家屋は焼失し、最後には原子爆弾により一瞬にして尊い人命財産を失った人々、四年間は日本の国の大きな損失であり悲劇であって、二度と戦争を起す事のないように後世に伝えて行かねばなりません。
その間は小学校では神社へ日参で冬の雪の中も裸足で全員駈足で参拝して必勝祈願をしたり、又夏休みになると養蚕農家の廃材の桑の木の皮はぎをし、小学校の講堂が桑の皮で一杯になり、その皮を出荷し学生服を作ってもらい配給して頂きました。旧制中学校へ進学しましたが、あまり勉強した記憶がなく、教官による教練とか、食糧生産でさつま芋の生産とかが主体であった様に思っています。又中学校の校庭も通路だけ残して全部さつま芋を作って供出したり、又終戦前には中学校校舎の半分は工場になるとの事で床は全部撤去され、校庭には種々な機械が来ていました。又各家庭では金属類の強制供出もあり、仏壇の鐘まで供出したり、又女性は竹槍を準備するなど大変であった事を思い出します。そして昭和二十年、中学二年生の時に終戦になり、学生改革で六三三四制になり男女共学が始まり今日まで続いています。然し終戦後状況は一変し学校では学生運動が始まり校庭に全校生徒が集まり、校長の排斥運動など又社会では都会から、食糧のお米と物々交換が始まり、時には家もなく食糧もなく一食をお願いする人も続いていました。私の所は農家でしたから田畑は広くあり戦後の食糧増産に力を入れました。その頃は農家も鎌と鍬で耕し大並な労力が必要でした。そして和牛の飼育を始め牛耕へと移りました。
又その頃農村では農政運動が始まり米価運動等毎年上京し政府へ陳情したりしました。そして農業機械の導入にはまず土地の基盤整備が必要と、農家は五年据置き二十五年償還の資金借入し、現在の農地基盤が出来上り大型機械が動いています。又上下水道の整備と集落排水事業の整備で農村環境も良くなりました。が然しながら今は米余りの時代になり米価の下落等時代の変り行く姿を感じながら人生八十五年を過しています。思い出のままに!
出典 (書籍名)語り伝えたい 戦後七十五年史/(発行者)雲南市遺族会/
(発行年月)2020年1月/(ページ)P94・P95
戦死公報は十四年後に来た (野津幸雄)
父への招集令状は、自分が十三才の時だった、忘れもしない庭先で桑の木の皮はぎをしていた。その日の午前、地元の村役場勤務の小山友さんが持って来られた。父は昭和十九年六月十九日出征、午前中に氏神様に参拝、集落の皆様に見送られて家を出発した、自分も父の見送りに日登駅まで行き、それが父との一生の別れとなった行先は広島と聞いていた。
当時の学校は高等科の生徒は出征されている家庭への手伝いに、出征している自分は通学免除家の手伝いをする事になっていた、昭和二十年八月十五日終戦になったが、家庭での父の帰還を毎日まっていた、しかし父の消息は解らなかった。
母は帰還された方々の家に足を運んで父の消息をたずねあるいたが消息はつかめなかった、その母の一心の姿は今でも忘れることが出来ない悲しみである。
父の死亡告知書が来たのは終戦から十四年も経過した昭和三十四年三月二日でした、家族一同あらためて大きな悲しみでした。
死亡した戦地は中華民国竜江省昭和二十年十一月三日戦病死と記されてありました、発送者は恒松安夫島根県知事でした。
葬儀は昭和三十四年三月二十一日自治会の皆様にお世話頂き、木次町長難波保一様と町議会議長板持喜代一様の弔辞を頂き無事おえることが出来ました。
今でも思い出しますが、戦中の食糧難時サツマ芋を供出で持参した時であったが、子供だと見下して「選別が悪い」と苦情を言われ引き取られた悔しい思いが今も忘れません。
家族で戦後は力を合わせ、養蚕、葉タバコ、和牛、稲作と大変苦労しながらやって来ました。
艱難辛苦を乗りこえ家族を守った母も平成十五年一月三十一日父の元へ旅立ちました。母と共に家を守った自分も本年で米寿を夫婦そろって向かえる事が出来て喜んでいます。
戦争はこの様な事があり親族家族を引き裂く悲しいものと思います。
これからも戦争が二度とおきない事を願って拙い文章ですが書かせてもらいました。
出典 (書籍名)語り伝えたい 戦後七十五年史/(発行者)雲南市遺族会/
(発行年月)2020年1月/(ページ)P72・P73
昭和の遺児(山根昭吉)
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争が始まり、海潮地内からも次々と軍隊へ出征される。「一億一心」「米英撃滅」、子どもは「ホシガリマセンカツマデハ」が合言葉であった。
当時、我が家はリュウマチで足の立たない祖父、気丈な祖母、父母と兄弟5人の九人家族。父は農業に熱心で、部落のリーダーとして食糧増産の米麦藷などを作り、島根県農事試験場の依頼で、米の品種別試験や食用になる菜種の品種別試験もしていた。私は学校から帰ると、いつも父母の手伝いをしていた。戦況も、十八年頃までは戦勝のニュースばかり、日本軍は北南へと転進々々していく。
だが、戦勝のニュースはいつまでも続かない。アッツ島、サイパン島の玉砕。村内にも双方で戦死者があった旨の公報が来る。海潮温泉旅館も傷痍軍人の宿舎となり、たくさんの白衣の兵士達が来られる。温泉海潮荘の裏山、霊泉山公園に安置されていた等身大で銅製の、立った男観音様と座った女観音様の二体、部落の人たちの手で山から下ろされ供出された。「観音様が鉄砲の弾にならいげな」。観音様の怒りからか、その夜は大雷が鳴り響く。
十九年二月、突然、役場の軍事係の人が父に召集令状を持って来られる。受け取った父は「ようやく一人前になったか」、母は「とうとう来たかね」とつぶやく。父は出征前、縁側で散髪をし、手や足の爪を切り、茶封筒に爪と髪を入れ佛壇の下の戸棚へ収める。私は、不安な気持ちで見ていた。父の出征日は三月三十一日。早朝、家族や部落の人達と神社参拝し、見送りを受ける。見送りは「アメリカのスパイが見るといけんけん」一戸一人宛、万歳三唱も「大声を出さないで」と村からの通達がある。父は、大東駅から他の出征兵士と九州小倉聯隊へ入隊される。祖母は、父が兵隊から帰られるまで「毎日朝夕膳をせないけんけん」と、父の箱膳に飯を供する。母はそれを後で食べる。父の出征後、朝登校するまでに、私は牛飼、妹や弟達は父の武連長久を祈り毎日神社参拝してから登校する。母は私達を育てるため、朝に朝星、夜に夜星、近所の人達と手間替えをしながら一生懸命に働く。祖母は、足の立たない祖父の介護等と、食事の用意や農作業の手伝いをする。「お父さんが帰られたら褒めてごさいけん頑張って勉強や手伝いをしてごせよ。」いつも私達五人の兄弟を優しく見守ってくれる。
温泉で療養しておられる傷痍軍人の糞尿汲み取りは部落でせよ、と通達があり、近くの農家が順番にすることになった。一日学校を休み、母と二人で肥桶を担ぎ、畑へ散布する。一週間に一回は順番が来る。
父が出征してから三ヶ月、父との面会が許され、九州小倉へ母と二人、父に会いに行く。父は「南の島へ転進するがどこかわからない」と言う。父と母は、任地を知らせる暗号の葉書を出すと約束する。面会した後、父からの葉書は一ヶ月も来ない。戦況は悪くなるばかりで、家内中心配する。「来た!」
千葉県木更津航空基地気付ウ四〇二 山根幸吉
軍隊の検閲により文中黒線で消された文面をある中、ところどころ点がたくさんついている。「点から下二字を読め」と父母が約束した、暗号の葉書だ。「オガサハライオウ島」。地図を出して見る。葉書を神棚に供えて、父の安全を祈る。硫黄島は東京から南へ一二五〇㎞の火山島。面積二十平方㎞、標高百メートル前後の平坦な島。南西海岸は砂浜、その他の海岸は絶壁である。雨が少なく、島で水を汲めるところはない。スコールが飲料水。「父が戦争に勝って帰られるまで頑張らんといけん」が母の言葉。
昭二十年二月十九日、「米軍が硫黄島上陸」のニュースが新聞に出る。父のことが家内中心配になる。祖母は神棚に祈る。海潮村役場前にはアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の大きな藁人形が立ち、竹槍三本。通行の村民や通学の子供達に「ヤッ!」と叫んで突けと、村長から命令がある。硫黄島へ米軍が上陸してから約一ヶ月、三月七日、「日本軍全員玉砕」と新聞やラジオのニュースで報じる。お父さんどこかで生きていられるかも・・・・・
硫黄島での戦死者
日本軍 二〇九三三名 米軍 六八二二名
米軍はB29爆撃機による東京空襲の足場として、硫黄島を基地とする。二十年八月六日広島へ原爆投下。九日、長崎へも。「えらい爆弾が落ちたげな。」日本は負けるかもしれない。八月十五日、天皇陛下の玉音放送があるから聞きに来なさいと言われ、近所の人達と近くの家へ集まる。ラジオの音声が悪く聞きにくい。「どうも日本は戦争に負けたようだ」。不安な気持ちで帰っていると、役場の軍事係の人が、父の戦死公報を持って来られる。
足の立たない祖父、むせび泣く母や私達兄弟。やがて海潮村長が弔問に来られる。泣いている私達に大声で、「泣くんじゃない!悲しくない!」。これが村長の弔問の挨拶。戦死すれば「名誉の戦死」と言われた時代。私は村長のあの言葉は七十年過ぎた今でも忘れることはできない。悔しかった。
学制が終わり新制中学が誕生する。私は新制中学第一期卒業生だ。祖母は「高校へ行かせてやりたい」と言う。母は「お父さんがおられんのに、そげな銭がどこにあるかね」。私は父親代わりとして頑張らなければ、と決心する。弟二人妹二人も、五人の兄弟は、皆、高校へは進学しなかった。
弟達は兄の手伝いをしながら独学して、上の弟は島根県警の採用試験に合格、警察官となった。在任中の平成四年には、警察庁長官から警察功労章を受章、平成二十一年には、瑞宝双光章の叙勲を受けた。下の弟は、町の自動車修理工場へ入社し、自動車整備士と車検の検査官の資格も取って民間車検修理工場へ。優秀な自動車整備士として、平成八年には、中国運輸局島根陸連支局長から、平成十五年には、中国陸運局長から表彰された。妹達二人は、町の医院に住み込み、看護学校へ通わせてもらい、看護婦の資格を取る。上の妹はさらに勉強して、助産婦の資格も取った。五人がお互いに励まし合いながら、それぞれ独り立ちして社会の一員となった。
父親代わりをした私は、農業林業に加え、「牛飼は止めるな」と父の遺言となった牛飼もする。全国で有名になった島根県の種牡牛、第七糸桜号の子牛は、貨物輸送だ。貨車一両に、子牛十三頭くらい積み込む。貨車の子牛の上に竹座を張り、藁や干草、ふかわ等を積み込む。私のベッドは藁の中で、行き先は北海道。子牛とともに鉄路の旅。出発してから五日後に到着した目的地、厚岸郡厚岸町は北海道の東端。終戦後ロシアの支配下となった北方領土、歯舞、色丹、国後、択捉の四島、ニシン、サケ、マス、タラ、カニ、コンブなど海の幸の宝庫を失い、漁業から農業への転換を余儀なくされた。子牛を届けた夜、厚岸町産業課の人や子牛を飼養される人達に招待される。酒を?みながら、北方領土を取られた悔しさを話される。島根の子牛が北の大地で繁栄するのを祈る。私は二度三度と北海道へ子牛を運んだ。
田中角栄首相の日本列島改造論で活気づく日本、農村からの出稼ぎブーム。私も冬になると、養畜等を妻に任せて「働け!働け!」。山林伐開、高所作業等に、大阪、九州、広島など賃金の高い県外へと、二ヶ月くらいは出稼ぎに出る。母も年を重ねる。母が元気なうちに、父の玉砕した硫黄島へ遺骨収集に行こうと決心する。
東京九段会館へ集合。全国の同志と合流し、靖国神社正殿参拝、遺骨収集の安全を祈る。入間自衛隊航空基地からB一三〇輸送機にて硫黄島へ。初日は父の戦闘地、第二〇機関砲隊陣地へ。「お父さん、迎えに来たよ!」と故郷から持ってきた水、米、果物などと、家族全員の写真を供えて線香を立てる。般若心経の声も途切れ、涙にむせぶ。遺骨収集期間は、一回十五日間。遺骨収集作業は、収集班と調査班の二班に分かれる。私は、狩猟や山林伐開の経験があり、調査班に指名された。また、収集期間中、厚生省社会援護局と日本遺族会に提出する作業日誌を書けと指名される。重責を感じる。
収集期間中、島根県外の遺族連合会や硫黄島遺族会等から、差し入れとしてそれぞれの故郷の土産が送られてくる。それらをいつも、私にも分けてくださる。遺骨収集同志の、絆を深めるためだ。ありがたくいただき、私も二回目の渡島からは、島根名物の特製アゴ野焼きや刈畑ワサビ等を買い、たくさんのスーツケースに詰め込んだ。一回十五日間の遺骨収集が終わる前日にも、御遺骨はたくさん出てくる。玉砕された父達の、望郷と父母妻子への想い。「俺も連れて帰ってくれ」英霊にも心がある。「また迎えに来ますから」と心に誓う。最終日には、天山慰霊所でのお別れの式典がある。収集に来られた各県からは、県知事名の花が献花される。島根県はない。私は、自衛隊施設課から花を買い、「島根県知事澄田信義」と書いて献花した。帰りは入間航空基地で解散だが、私は九段会館社会援護局へ立ち寄り、遺骨収集日誌二部を提出して、東京発出雲行きサンライズ出雲号で帰る。私は計七度、遺骨収集に渡島した。
延べ四ヶ月で収集した御遺骨は、二百十三柱。私は、平成二十三年七十六才の時、溝口善兵衛島根県知事から「生涯現役証」を受証した。戦後七十年、風化させてはならない。私の孫聖香は、戦死された曾祖父のことなどを、少年の主張コンクールで話し、雲南市で最優秀賞を受賞した。
斜陽化する農業。私達老夫婦は、牛飼をしながら二町歩の田畑を耕作し、四人の孫に囲まれながら幸せな老後である。山から猪が笑っている。
猪に負けてたまるか老夫婦
出典 (書籍名)語り伝えたい 戦後七十五年史/(発行者)雲南市遺族会/
(発行年月)2020年1月/(ページ)P156・P157・P158・P159