日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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枚方市

戦争被害の状況

甚大な被害をもたらした禁野火薬庫大爆発
 かつて枚方は爆弾や砲弾を製造・保管する施設が3つ(禁野火薬庫、枚方製造所、香里製造所)もある軍需のまちでした。
 日清戦争後の軍備拡張の一環で1897年(明治30年)に造られた禁野火薬庫は、淀川で船を使って物資を運ぶことが多かった当時、兵器工場のあった大阪と宇治の中間にあり、人があまり住んでいなかった場所が選ばれました。
 1939年(昭和14年)3月1日午後2時45分、禁野火薬庫の第15号倉庫で爆発事故が発生しました。中国・上海から返送されてきた砲弾の解体作業中に発火し、天地を揺るがす大爆発となりました。爆発音は京阪一帯に響きわたり、灼熱した弾薬や破片が飛び散りました。午後7時までに29回の爆発を繰り返し、3月3日正午になってようやく火災はおさまりました。炸裂した弾丸の破片は半径2キロに飛散し、近隣の集落にも延焼しました。陸軍の報告によると、爆発の被害は消防組の殉職者を含め死者94人、負傷者602人、家屋の全半壊821戸、被災世帯4425世帯に達しました。

1939年(昭和14年)禁野火薬庫の内部(枚方市文化財課提供)
1939年(昭和14年)禁野火薬庫作業室(枚方市文化財課提供)
爆心地付近(枚方市文化財課提供)
禁野火薬庫と枚方製造所の境界から南方向の様子(枚方市文化財課提供)

戦後の復興の歩み

戦後、軍需のまちから平和のまちへ
 1945年(昭和20年)の終戦により、軍需施設は閉鎖されました。香里製造所の工場の一部は学校や病院として使われましたが、設備等は放置されていました。1950年(昭和25年)、朝鮮戦争が始まると、民間の火薬製造会社が香里製造所の払い下げを申請します。禁野火薬庫大爆発の悲惨さを知っていた市民は大反対しました。1万人の署名を集めて国会・政府に陳情を重ね、半年以上に及ぶ粘り強い地元の反対運動の結果、政府は火薬製造所再開を断念し、1958年(昭和33年)、当時東洋一といわれた香里団地が完成しました。同製造所の建物や設備はすべて撤去され近代的なニュータウンに一変しましたが、同製造所の煙突は撤去を免れました。
 1982年(昭和57年)、枚方市は大阪府内で初めて「非核平和都市」を宣言し、「不戦と平和」のシンボルとして、この煙突を保存することにしました。煙突から煙が出ていた時代、再び煙を出さないように繰り広げられた市民の平和への熱い思い、平和な住宅地へと変貌した姿を、この煙突は見続けています。

伝えたい平和の大切さ
 3月1日は枚方市にとって、平和の大切さを考える日です。1939年(昭和14年)、禁野火薬庫が大爆発した日であり、1954年(昭和29年)には、アメリカ軍が行った水爆実験でマグロ漁船の第五福竜丸がビキニ環礁で被ばくした日でもあるからです。1989年(平成元年)、市は2つの大惨事を風化させず、市民一人ひとりが平和の大切さを考える日にしようと、3月1日を「枚方市平和の日」に制定しました。
毎年2月~3月には、「平和の燈火(あかり)」や「ひらかた平和フォーラム」等を開催し、平和の大切さを伝え続けています。
 また、平和資料室での戦争資料の展示や、市内の戦争遺跡をめぐるツアーなど、年間を通して様々な平和啓発事業を実施しています。

不戦と平和のシンボル「妙見山の煙突」
大学生たちと創る「平和の燈火(あかり)」
禁野火薬庫大爆発の記録等を伝える「平和資料室」

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