日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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宇治市

戦争被害の状況

勤労動員先で 
 農村や工場における労働力不足を補うため、学生・生徒は強制的に動員されました。
勤労動員は、昭和13年(1938)より始まりましたが、動員の範囲は戦況の悪化にともない次第に拡大され、昭和20年(1945)の「決戦教育措置要綱」では、国民学校初等科を除く一年間の授業停止が決定、学徒は軍需生産・食糧増産・防空防衛に総動員されることとなりました。国民学校でも高等科の児童は、宇治校がマルキイースト(現京都大学宇治キャンパス以南)に、大久保校が日本国際航空工業株式会社(現自衛隊大久保駐屯地付近)に槇島校・菟道校が日本レイヨン株式会社(現ユニチカ株式会社付近)などの軍需工場や巨椋池干拓地などに動員されました。日本レイヨンの「砂糖溶解所」では、砂糖を溶解し飛行機の燃料を作っていました。

昭和10年代自宅前にて身内による出征歓送(宇治市歴史資料館所蔵)
昭和10年代宇治神社にて神前に報告し、駅へ(宇治市歴史資料館所蔵)
昭和19年日本レイヨンにて勤労動員先で(宇治市歴史資料館所蔵)
昭和19年平等院にて莵道国民学校卒業を記念して(宇治市歴史資料館所蔵)

戦後の復興の歩み

宇治市誕生
 わが国が戦後の復興期から高度経済成長期へと歩を進め、町や村の様相も変化していく同じ頃、昭和26年(1951)、宇治市が誕生しました。2町3村(宇治町・東宇治町・槇島村・小倉村・大久保村)が合併し一つの街になりましました。
当時、宇治川畔に広がる平野部は、集落と一部大きな工場が点在するほかは茶園と田畑が続き、「お茶と観光の街」というキャッチフレーズそのままの風景が広がっていました。その後、昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長により、大阪や京都といった大都市に働く人びとの住宅地へと変貌していきます。約4万人であった人口も今では約18万人となっており、市民を取り巻く環境も大きく様変わりしました。

昭和36年宇治市街地をのぞむ(宇治市歴史資料館所蔵)
昭和29年のびる水道管 県通りの水道管敷設工事のようす(宇治市歴史資料館所蔵)
昭和32年舗装されていく道路 旧国道24号線現小倉西山交差点付近から北をのぞむ(宇治市歴史資料館所蔵)
昭和33年にぎわう宇治橋通り商店街(宇治市歴史資料館所蔵)