日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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鈴鹿市

戦争被害の状況

鈴鹿市の戦時中のエピソード
 戦時下の昭和17年12月1日、鈴鹿海軍工廠が円滑に機能するための必要上から広域的な合併が行われ、鈴鹿市が成立しました。神戸国民学校に在籍中だった稲垣俊夫さんは、鈴鹿市誕生を記念して市内を徒歩で一周するイベントに参加しました。早朝から暗くなるまで歩き続けたそうですが、学校行事として行われたものと思われます。
 町や村から市になるのは「都会の人になった気持ちになって嬉しかったように思います」という感想も、一般に見られたようです。また、皆で寄附を募り、「鈴鹿市民号」という飛行機を造って国に寄附したとの証言もありました。
 鈴鹿市は、軍事施設が多いため、住民と軍人との交流が濃厚に見られました。その代表的なものに「下宿」があります。兵士が休日の時間を過ごす場所の提供であり、部屋の多い家が選ばれました。兵士にとって、飲食、風呂、そして家族との交流は楽しみだったようです。特攻隊兵士の姿が多いのは、それだけ休日の過ごし方に配慮がなされたのだと思われます。
 その下宿で、様々なふれあいが生まれました。子供の頃に下宿に来た兵隊さんに遊んで貰い、異郷の地の話を聞いた経験は少なくありません。またその後、下宿した家の娘と結婚に至るなど、戦後も家族ぐるみの交流が続いたこともありました。特攻隊兵士との触れ合いは特に印象深く、「近々出陣し、敵船に飛行機で突っ込んでいく」のだと聞いた証言者の祖母は、「ほんならお前、死ぬやないかっ」と叫び、涙をぽろぽろこぼしながら赤飯を炊いたといいます。京都出身のその兵士は、遺書にこの赤飯が美味しく、嬉しかったことを記し、両親が鈴鹿まで御礼に訪れたようです。
 学徒動員の話も多く聞くことができました。生徒らは宿舎に強制的に入れられ、そこから隊列を組んで鉢巻きをし、学徒動員の歌を歌いながら工場に通いました。一日中旋盤を用いて機関銃の底や引き金、弾口などの部品、弾を作りましたが、機械の扱いに慣れない生徒たちがどれほど役立ったのでしょうか。少なからぬ人が「おシャカ」(不良品)について言及しています。「7、8割はおシャカだった」、「機関銃は100挺のうち2挺しか使い物にならなかった」という証言もあります。工廠には地元住民を含め幅広い年齢階層が集まっていましたが、徴兵によって熟練工が少なく、指導体制も十分ではなかったのだと思われます。
 学徒動員で寮生活を送る生徒たちは、父や兄が出征する時でも帰省することは許されませんでした。しかし、20歳で教員になりたての谿花光子さんは、「翌朝に戻るように」と言って夜に裏口から生徒をこっそりと帰したといいます。朝の点呼に間に合わない生徒もおり、ひどく怒られることになりましたが、今生の別れになるかもわからないという思いから、処罰を覚悟しての行為でした。その後、そうした教員生活は重荷で、退職願いを出すことになったといいます。
 激しい戦火に見舞われた四日市や津に比し、鈴鹿市域は重要な軍事施設が多くあったにもかかわらず、大きな空襲からは免れました。町場が散在し、農村地帯が広がる地形的な要因もあったのだと思います。四日市や津の空襲は、夜間ということもあり鈴鹿市域からもはっきりと確認でき、空が赤く染まり、「次は鈴鹿か」との恐怖を感じた市民も多かったようです。
 敗戦前の6、7月には市内に爆弾が落とされました。後藤道男さんは家で直撃弾を受けましたが、辛うじて助かりました。また、別の女性は、母親が子供に乳を飲ませていた時に爆弾が落ち、破片が飛んできて3歳の子供の顔を吹き飛ばし、母親の胸を破片が突き抜け大きな穴があいたといいます。それでも住民はその場で生活を営まなければなりません。子どもたちは田圃などに散乱した爆弾の破片を拾い、それを売って物を買っていたといいます。また、陸軍国土防衛隊だった男性は、爆撃で死んだ牛の死体を荷車に乗せて軍隊に持ち帰り、味噌汁のなかに入れるなどして皆で食べるという経験をされています。
 爆撃機による機銃掃射の恐怖を語った方も少なくありません。加藤久子さんは、北伊勢航空隊の事務室に勤務していましたが、超低空飛行のロッキードの空襲に遭い、すんでのところで助かりました。飛行機を操縦するアメリカ兵士の顔まで見え、今でも夢に見るという。終戦間際、襲来したB29に日本の戦闘機が体当たりし、白子港の沖合に墜落させたこともありました。特攻隊的な闘いは、鈴鹿の地でも行われ、見物客はみな拍手喝采でしたが、操縦していた若いパイロットは当然、即死でした。墜落したアメリカ兵を捕まえに漁師らが船を漕いで向かい、竹槍や櫂で殴り、2、3人のアメリカ兵を連れて帰ると、アメリカ兵は殺されることを覚悟している表情だったといいます。
 訓練中に墜落する事故も少なくありませんでした。白子の羽多野登喜男さんは、小学校で遊んでいた時に上空を飛ぶ輸送機の異変に気付きます。飛行場に辿り着けないことを悟った輸送機は、街中への墜落を避けるため旋回して海に向かい、落ちていきました。覚悟の墜落であり、全員が死亡しますが、そのなかに羽多野家に下宿していた馴染みの兵士が含まれており、とても悲しい思いをされました。
 戦死の報せは、残された家族には耐え難いものでした。庄内地区の女性が語って下さった母親の思い出は、辛く、そして重い。父親が召集され、遺骨になって戻って来た時、井田川駅で白い布で包まれた箱を大切に抱きかかえて泣いていた母の姿が鮮明に頭に残っているそうです。夫を失い、子供3人を抱えた母は、何度か鉄道の線路に立ち、子どもたちの「もう帰ろう!」の泣き声で我に返ったといいます。また、戦後に外地からの引き揚げ者の名前を読み上げるラジオ番組を、母は10年間も飽きもせず聞き入っており、番組が終了した時に「あぁ…」と声をあげたといいます。理不尽な死を現実のものとして受け止めるにも、長い長い時間を要したのであり、その思いがいかに深かったかを感じさせます。
 徴兵に応じる前に、わざわざ志願兵となった者もいました。長谷川定夫さんは、「俺が行かねば日本の国が守れないと、図々しく思っていたんやな」と当時の心境を語られました。しかし、長谷川さんに「行くな」と言う人がいました。「下宿」に来ていた兵隊が「日本はもう負けるんだから」と言って反対したといいます。サイパンが陥落して南方戦線が悪化した状況を知る、兵士としての判断だったとのだと思われます。
 白子地区の男性も、一日でも早く軍隊に入った方が古兵となれると考えて志願を考えましたが、下宿の下士官が、軍隊生活の過酷さを懇々と説いたといいます。当時、鈴鹿での軍隊生活は「鬼の木更津、邪の鈴鹿」と言われるほど訓練が厳しかったようです。「下宿」の兵士と住民との交流の一側面であり、軍事施設が多く、戦況や軍隊生活の実態を知る兵士が身近にいる故に、鈴鹿の住民は軍国教育を相対化する情報を得る機会に恵まれていたのかもしれません。

下宿となった自宅で寛ぐ航空隊員(鈴鹿市文化財課提供)
軍艦旗に敬礼する航空隊員 鈴鹿海軍航空隊本部(鈴鹿市文化財課所蔵)
鈴鹿海軍工廠 農耕祭排球大会の様子(鈴鹿市文化財課提供)
鈴鹿海軍工廠 寮での講話(鈴鹿市文化財課提供)

戦後の復興の歩み

鈴鹿市の戦後の復興の歩み
 鈴鹿は総じて農業地域が広がり、戦後は食糧を求める都会人を迎える側でした。大阪や奈良などに通じる関西線の駅には、大きなリュックを背負い、着物などを持って米や芋を求める人で溢れ、入手した食糧を警察に摘発・没収されることを恐れて列車から落ちたり、轢かれる事故も発生しました。米については統制が厳しかったが、芋は警察も見逃してくれたといいます。また、軍事施設の後始末に従事した方もいました。庭田秋男さんは、玉垣村への割り当てに応じて鈴鹿海軍航空隊跡地でアメリカ軍の使役に行き、兵器の爆破作業を行いました。
 戦後の鈴鹿市の発展は、杉本龍造市長が主導した企業誘致に因るところが大きいことは市民の共通認識でした。企業誘致の窓口は市の商工課で、日東紡績、カネボウなど、多くの企業を軍事施設の跡地に誘致することに成功しました。昭和34年の本田技研の誘致は、既に伝説的な話として語り継がれています。犬山市との誘致合戦となりましたが、本田宗一郎氏が鈴鹿市に来訪した際、杉本市長の指示で豪華な接待はせず、冷やしたタオルとお茶だけを出しました。また、海軍工廠跡地を案内した際には、合図と共に四方で竿を揚げ、工場予定の場所を示しました。本田宗一郎氏はこの工夫に感心し、最終的に鈴鹿市に決めたのだといいます。当時、商工課で働いた軸原史朗さんは、この間の仕事振りを大いなる誇りを持って語られました。鈴鹿市の戦後の発展は、多くの市民の尽力によってなされたことはいうまでもありません。
 市政70周年(2012年)に戦争体験者に実施したアンケートの回答は匿名が多く、体験を詳細に書かれてはいても、聞き取りに応じることは拒否される方も少なくありませんでした。「悪い思い出ばかりで書きたくありません」、「思い出したくない。悲惨の一言」、「空襲で母が焼け死、助けられず。思い出で涙が止まらず。封じ込めた心。八十才の現在まで苦しみ続けてきた」などと痛切な心情が記されることもありました。「このアンケートで忘れていた2人の兄のことを思い出しては涙がとまりません」など、アンケートの依頼によって悲しみを新たにさせてしまうこともありました。重く、辛い経験をした人にとって、戦争は終わった話ではありません。聞き取った証言は、次の世代に大事に引き継がれていきますが、戦中・戦後の生活全貌に迫るには、その背後に隠された、いまだに語ることのできない人びとの辛く重い心情にも、思いを馳せねばならないのです。

三菱重工の社宅跡付近(昭和25年頃)(鈴鹿市文化財課所蔵)
日本電信電話公社による航空隊跡地視察(鈴鹿市文化財課所蔵)

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