日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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伊勢市

戦争被害の状況

伊勢でも大きな空襲があった…
 伊勢市にも空襲があり、大きな被害を受けました。
 昭和19年7月、サイパン島陥落後、日本各地への空襲は激しくなり、宇治山田市(現伊勢市)でも昭和20年1月14日に、初の空襲が行われました。この空襲は、三重県初の本格的な空襲とされています。この空襲では、伊勢神宮外宮の宮域内にも爆弾が投下され、爆風により屋根数か所に穴があいたとの被害が記録されています。
 外宮への爆弾投下は当時の人々にとって大変ショックだったようで、朝日新聞や毎日新聞の全国版にも伊勢神宮への爆撃が取り上げられました。
 その後も2月15日、3月14日、4月7日と1か月に1回の頻度で空襲は続き、さらに4月22日には米軍機約40機が来襲し、機銃掃射が行われました。6月には5日、15日、26日と3度も空襲がありました。7月29日未明の空襲はとりわけ大規模で、午前1時頃から約1時間にわたり約1万数千発の焼夷弾が投下され市内の約60%が焼失しました。宇治山田市への空襲が計9度も行われ、人々の暮らしや尊い命が奪われました。その被害は史料により差はありますが、被災家屋は全半焼4,928軒、全半壊22軒、死傷者は101名、負傷者は240名にも及びました。

戦後の復興の歩み

人々の生活そして伊勢の復興
 昭和20年7月29日の宇治山田空襲では1万数千発の焼夷弾が投下され、まちの半分以上が焼け野原になりました。その結果、家を失い、食料も不足するといった苦しい生活は戦後も続きました。配給もあったとはいえ、その量もだんだんと少なくなっていき、人々はなんとか飢えをしのごうと近くの山へ入ってシイやグミなどの木の実をとったり、食べるものがないときにはせっけんにかぶりついたこともある人もいたそうです。また当時、「ヤミ市」と呼ばれる公定価格を無視した自由市場で、食べ物や生活用品を購入したり、お金を得るためにものを売ったりしたりする人がたくさんいたといわれています。昭和21年には、宇治山田駅前に36軒ほど、山田駅前(現伊勢市駅)に37軒ほど、宮町通りに29軒ほどのヤミ市があったと記録されています。
 昭和21年には、市役所に三重県宇治山田特別計画復興事務所が開設され、戦災を受けた市街地を中心とする地域の整備が進むことになりました。戦災復興計画がたてられ、戦災を受けた中心市街地においては土地区画整理事業が行われ、ゆるやかにうねる世古などの古いまちなみが道路整備された整然としたまちなみへと変貌を遂げました。
 また、同年、戦後初の国立公園として伊勢市、度会郡、志摩郡にわたる広大な地域が伊勢志摩国立公園として指定され、観光地として再出発を踏み出しました。とはいえ、戦前、毎年約300万人ほど いた参拝者は昭和22年には約80万人まで激減していました。大きな危機感の中、宇治山田市を全国にPRしようと昭和23年3月31日から60日間にわたり平和博覧会が開催されました。当時の宇治山田市市長・北岡善之助氏は住宅一軒や牛一頭が当たる前売り入場券を販売し、大反響をえました。その後も集団見合いなどのイベントが次々と企画され、全国から多くの人が訪れるようになり、再びまちは活気づき始めました。
 昭和28年はご遷宮を機に、参宮有料道路(現県道鳥羽松阪線)の開通、宮川橋の再建、伊勢会館(伊勢市観光文化会館の前身)の開館、ご遷宮奉祝煙火大会(神宮奉納全国花火大会の契機となった花火大会)の挙行など多様な施設の建設及び行事の実施が相次ぎ、復興に向けた節目の年となりました。