日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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四日市市

戦争被害の状況

四日市空襲
 昭和20年(1945)6月18日未明、四日市はアメリカ軍の「作戦任務報告書」によると、B29爆撃機89機による空襲を受けました。約90分間にわたり、およそ30,000発の焼夷弾が投下され、市内の多くの家屋が焼失しました。コンクリートで造られた市役所や警察署の建物は焼け残りましたが、一面が焼け野原になりました。直前の17日23時半頃に一度警戒警報が発令されましたが、いったん解除されたため、安心して警戒を解いた市民も多くいたようです。そのため、再び警戒警報が発令された時は、既にB29が市内上空に進入しており、市民への被害が拡大することになりました。この時の空襲が最も一般市民への被害が大きく、死者約800人、負傷者約1,500人、被災者は約47,000人に及びました。この6月18日の空襲は「中小都市空襲」の第1回目で、アメリカ軍は第二海軍燃料廠がある四日市を「名古屋を補完する都市」「潜在的には日本最大の製油所を持つ」と考えていたようです。この後、四日市は終戦までに計9回の空襲を受け、第二海軍燃料廠をはじめとする工場群は壊滅的な被害を受けました。
 なお、注目すべきことは、アメリカ軍が原子爆弾の投下訓練のため原爆と同じ重量(4.5トン)の模擬爆弾を、四日市にも投下していることです。それは、7月24日に日永の安政池に、長崎原爆投下前日の8月8日に千歳町と燃料廠付近に計3発落とされました。
 『日本主要都市戦災概況図』の四日市の地図には「八月八日爆弾攻撃、一 投下弾五〇〇㎏爆弾二個、二 死者二名重傷一二名軽傷四四名、三 工場被害一四工場住宅一四〇戸全半壊」との記載があります。大音響と非常な破壊力であったことが記録されています。

戦後の復興の歩み

敗戦により焦土と化した市域が復興し近代的な都市となるには幾多の困難と努力がありました。戦争による多数の罹災者と満州・朝鮮からの引揚者や復員した出征兵士らの救護が当面の大きな事業でした。その中で農地改革・学制の変更等、経済・文化に関して日常生活に影響を与えるものが多く、すべてが変化した如くに感じられました。
四日市市は、大規模な軍事施設や主要企業が存在していたため、第二次世界大戦の末期に米軍機の数次にわたる空襲を受け、800余名という尊い人命が失われました。その軍事施設のひとつ、塩浜の旧第二海軍燃料廠の跡地は、戦後に平和産業へと転用され、全国有数の石油コンビナートが出現し、他都市に比べ早い経済的発展をたどりました。
また、その他の旧軍施設の活用と明治以来の近代的港湾を復旧整備したことによって工業化が急速に展開し、相乗的に人口も増加し市街地は郊外へと延び、今日の繁栄がもたらされました。