津市
戦争被害の状況
戦時下の暮らし
昭和16年に太平洋戦争が始まると市民の生活も戦争に巻き込まれていきました。兵器の増産が求められると、高茶屋海軍工廠をはじめ、東洋紡績、岸和田紡績などの工場が軍需工場に転用されました。これらの工場では、人手が不足すると勤労動員が行われ、中学生や女学生、さらには県外から学生も動員されて働いていました。この頃は軍需産業が優先で日常生活に必要な物が不足してくると配給制や切符制が進み、食糧不足を補うために学校や市役所の庭も開墾されました。本土空襲の恐れが出てくると名古屋から児童が集団で疎開してきたり、市民の防空訓練も頻繁になりました。
津市の空襲
津市が空襲を受けたのは昭和20年に入ってからでした。3月19日安東地区の水田に爆弾が落ち1人が死亡しました。次いで4月7日には神戸国民学校を中心に付近が空襲をうけ、学校の先生を含めた31人が犠牲になりました。6月26日には軍需工場が目標になり、橋南・橋北地区の工場地帯や津駅周辺が被害をうけました。最も多数の死傷者を出したのは、7月24日の西橋内地区を中心とした空襲でした。倒壊した家屋から火の手が上がり、橋内被爆地域が焼失し、約1,200人が犠牲となりました。次いで7月28日は焼夷弾による空襲でした。アメリカ軍の資料によるとこの時使われた爆弾は2,919個で、市街の中心部は一面の焼け野原となりました。これらの数回にわたる空襲によって、市街地の73%が罹災し、空襲による犠牲者は2,500人以上にのぼりました。




戦後の復興の歩み
復興への歩み
7月28日の大空襲で家を失った多くの市民は、親戚に身を寄せたり焼け跡でトタンのバラック生活や壕生活を送りました。
戦災直後の生活は大変なもので、電気がなかなかこないため夜はローソクの明かりで用をすませ早く床につきました。風呂はなく、バラック小屋のそばにドラム缶で湯をわかして入ったり、もらい風呂をしたり、焼けなかった風呂屋へ出かけたりしました。焼けトタン板の屋根は夜には月の明かりがもれ、すきま風がはいり、雨天には雨漏りがしました。家の床は低く床板の上にむしろを敷き畳の代わりとしました。
市民は、焼け跡の敷地に畑を作り、かぼちゃやさつまいもを栽培し、さつまいもの葉柄もすいとんに入れて食べました。また、戦災で焼けずに持っていた着物を農家へ持っていき、米や麦などと交換するなど食糧を得るのに大変苦労しました。
電気は10月ごろからぼつぼつつきはじめ、水道が修理されて給水されるようになったのは11月ごろでしたが、中心部はまだ行き届かず不便な生活でありました。
11月ごろの津の町は、赤茶けた焼け瓦や煉瓦・金属など多くはそのまま残骸をさらけ出していました。国道も車道だけはやっと整理されましたが、人道は全く整理されておらず、市道の多くもただ人の歩くところだけが道らしい形をつくっているにすぎませんでした。
一方、市民の消費生活は、長い間の戦争で物資が極度に欠乏し、ないものづくめでした。一番早く店舗ができたところは、近鉄津新町駅から岩田橋までの通りで、露店からはじまり、次第に極めて小さなバラック店舗ができてきました。
昭和21年にはマーケットが焼け跡の各所にでき、市民はそこへ出かけて生活必需品を求めました。
【市街の復興】
昭和20年10月市役所仮庁舎が建てられ、昭和21年8月津郵便局、昭和25年中日会館等が建てられ、町並みも次第に形づくられていきました。
新町通りにつづいて、岩田橋と塔世橋を結ぶ橋内と橋北、橋南の国道沿い、及び京口・立町・大門町などが復興し、これが津市の発展のもとになりました。はじめのころは建築資材や家屋の坪数等も制限され本建築は許可されませんでしたが、その後都市計画事業も進行し物資資材の供給も円滑になり、本建築が許可されるようになりました。こうしてみるみるうちに街の表通りには立派な建物が立ち並び、復興は表通りから周辺に及んでいきました。

