武豊町
戦争被害の状況
武豊空襲
昭和20年(1945)7月24日、「ザッザザー。シャー。ヒュル。ヒュルーッ。」というこれまでに経験したことがない異様なものすごい音が武豊町に響きました。武豊町の名鉄上ケ駅付近に爆弾が数個(約30個ほどという説)が投下されたのです。上ケ駅周辺には、川崎重工知多工場や日本油脂の工場があり、そこをねらったものが外れたという噂や、工場へ向かう人をねらったのか、真相はわかっていません。周辺の家々は、爆弾の直撃を受けて吹き飛び、近くの大日寺境内には爆撃の犠牲になった人々の遺体が横たわっていたそうです。
爆弾は、爆発すると細かく鋭い鉄片を四方に飛散させ、それら一つ一つが相当な殺傷力をもって人体を傷つけ、多くの命を奪いました。
平和な現在があるのは、戦中多くの方々が尊い命を犠牲にされたこと、また先人たちが耐え難い苦労や血のにじむような努力をされたことなど、それらが礎になっていることを決して忘れてはいけないと思います。私たちは、先人たちが築いた平和な世を守っていかなければなりません。



戦後の復興の歩み
発展していく武豊
昭和20年(1945)8月15日、長い戦争が終わりました。食糧などの物資が不足し、人々はまだまだ苦しい生活にあえいでいました。しかし、農業や工業の生産が回復していくとともに、生活も少しずつ向上してゆきました。
戦後の世の中が少し落ち着き始めた昭和28年に「町村合併推進法」が制定され、武豊町と冨貴村が合併し、昭和29年10月5日に新生武豊町が誕生しました。昭和30年代になると、役場庁舎が名鉄知多武豊駅付近に移転し、武豊空襲で大きな被害を受けた名鉄上ケ駅周辺は町の中心地になりました。さらに、道路の新設や臨海工業地帯の発展に伴い、武豊町はどんどん成長してゆきました。




