蟹江町
戦争被害の状況
戦争の被害
第二次世界大戦の末期、軍事産業都市名古屋は数回の爆撃によって大きな被害に遭いましたが、隣接する蟹江町も空襲による被害を受けました。昭和20年3月12日午前0時30分頃に、日光川のはるか上空をさかのぼってやって来た米軍機が投下した焼夷弾で、舟入地区227戸、新蟹江地区3戸、鍋蓋新田地区8戸、計238戸が焼かれ、被災者は1,247人を数えました。出兵して戦病死した町民も数多くいました。
戦時体験下の学校
昭和12年、日中戦争が勃発しましたが、児童に直接の影響はそれほど無く、動員令によって召集される町民を蟹江駅(現JR)へ見送りに行く程度でした。
しかし、同14年になると、戦場の後方としての緊張感が高まり始めました。
さらに、食糧増産が叫ばれ、児童も農作物の刈入作業などの奉仕に出動していました。これ以後、防空訓練、農繁期における託児所開設、出征兵士家庭への農業勤労奉仕と、慣例化しました。
戦局も終末期になると、児童も戦闘員化され、町内の国民学校では1945(昭和20)年5月1日から「敵前武技」(竹槍)訓練が行われ、6月22日には「学徒隊」も結成されました。もはや、ここまでくると「学校児童生徒」ではなく、「兵士」として扱われるようになりました。