日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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藤枝市

戦争被害の状況

太平洋戦争と藤枝 
 1942年に、藤枝町お姫平(現在の藤枝市岡出山周辺)にアメリカ軍による空襲を察知するために防空監視哨が設けられました。哨員には藤枝町や周辺の村々の人が選ばれ、24時間監視を行いました。近隣に住んでいる人たちから、慰問品が届くこともありました。このような監視哨の設置は、空襲の脅威が間近に迫っていたことを表しています。
 1945年1月9日、アメリカ軍爆撃機B29によって藤枝町へ爆撃が行われました。監視哨の報告によると、投下された爆弾は11発であり、藤枝町役場防空壕などに着弾しました。当時役場で会議を行っていた大井牧太町長をはじめ9名が亡くなり、多くの重軽傷者が出ました。このとき飛来したB29は、東京へ爆撃を計画しサイパンから出発したものの、悪天候のため急遽藤枝への爆撃を行ったものと思われています。
 大都市への爆撃を取りやめたりして余った爆弾を地方都市に投下することはたびたび行われていました。藤枝でも、名古屋や浜松などの東海地方の大都市への爆撃で余った爆弾が投下されています。1945年5月19日には、広幡国民学校の児童2名が、帰宅途中に爆撃によって命を奪われています。
 藤枝の人々にとっても戦争は縁遠いものではありませんでした。日常的な物資不足に加え、空襲や戦争の恐怖は常に身近にあるものでした。

戦後の復興の歩み

戦後復興からサッカーのまちへ
 戦争は当時の藤枝の主要な産業である農業に大きな打撃を与えました。お茶の生産量は、戦前の約20パーセント程度まで減少し、みかんの生産量も戦前の5分の1程度に落ち込んでしまいました。戦時中は、人手不足に加え肥料や農機具の不足もあり、戦争が終わった後も数年間は生産量が回復せず、藤枝の人々にとっては厳しい生活が続きました。
 このころ、都市部が空襲によって破壊されたことで、藤枝のような地方都市に物資を求めて買い出しに訪れる人々が急増しました。藤枝にも買い出し客が大勢訪れ、農産物や物資の需要は飛躍的に増加しました。藤枝を通る鉄道「藤相鉄道」「東海道線」は連日大混雑となり、乗り切らない乗客が窓から屋根に上る状態でした。これを追い風に農業は急速に回復していきました。
 生活の復興は文化・スポーツにも影響を与えました。県立志太中学(現:藤枝東高校)のサッカー部は敗戦後すぐに活動を再開し、1947年に静岡県スポーツ大会で優勝しています。1952年には地方都市としてはじめて天皇杯全日本サッカー選手権大会が藤枝で開催され、戦争からの復興を印象付けました。

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