富士市
戦争被害の状況
戦闘機パイロットを養成した「富士分飛行場」
戦争末期の1944年9月、不足する戦闘機パイロットを養成する「陸軍明野飛行学校富士分飛行場」が開校しました。飛行場建設のため、地元住民は230戸の家屋を移転し、162町歩の田畑を提供、1万人を超える住民や学生の勤労動員などにより半年余りで飛行場が完成しました。訓練生から特攻隊の志願を募り、沖縄戦に参加、戦死した若者もいたそうです。
また、飛行場建設のため中国から504人が連行され、栄養失調などで52人が亡くなり、ここに埋葬されました。
昭和29年(1954年)5月に遺骨の発掘と慰霊祭が行われ、同年11月に遺骨は中国に送還されました。毎年7月に地元中丸区と富士市日中友好協会が中心となって慰霊祭を行っています。
この飛行場は、戦後10年余の努力で元の田畑に戻りました。
現在、残された慰霊碑、記念碑、地下壕や生存した特攻隊員の証言などからこの飛行場の歴史を知ることができます。


