山県市
戦争被害の状況
勤労奉仕する児童たち
戦時中は、学校も様々な影響を受けました。昭和18年頃、戦況激化に伴い、大砲に、軍艦に、と軍事物資不足のため金属回収が強制され、大切な寺の鐘や国民学校の二宮金次郎像までも供出されました。国民学校の児童たちは、食糧増産のため荒地を開墾したり、繊維にするために桑の木の皮を剥いで供出する作業などに従事しました。勤労奉仕も重要な学校教育となっており、出征家族や戦死された遺族の手伝いなどにも従事しました。
また、昭和19年7月、サイパン島での日本軍の全滅後、敵機の襲来が頻繁となり、空襲を受けた岐阜市などからの疎開者は増え続け、農山村の人口は増加しました。しかし、屈強な男子はほとんど戦場にあり、肥料も不足して食糧の増産に大きな支障を来しました。


戦後の復興の歩み
製材工場が増加
戦後の復興資材に必要不可欠の木材は、需要が増加しました。木材界は活気を帯び、各所に製材工場が次々と建設されました。その数は60を超え、木材需要の増加は、林道開削にも力を傾注させました。
木材業者は、戦時中の岐北木材協力会の統制組織を解かれ、個人の自由企業が許されました。大空襲で焦土と化した岐阜市、名古屋市を中心に、バラック建てから本建築がはじまると、木材の需要は著しく増加しました。その需要を充足するために、製材工場は年を追って増加しました。素材は地元材だけでは需要に応じ切れず、岐阜市の木材市場や他町村から、遠くは滋賀県、三重県等の県外からも運び込まれました。
