日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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松本市

戦争被害の状況

歩兵第五十連隊
 歩兵第五十連隊は、日露戦争中の明治38年(1905)に編成されました。
五十連隊の駐屯地を陸軍省が探していることを知った松本町は、連隊誘致のため、松本町長小里頼永(おり よりなが)らが急遽上京し、松本町出身で当時の陸軍参謀次長福島安正(ふくしま やすまさ)や陸軍大臣らに陳情を行い、そのかいあって松本に連隊駐屯地が決まりました。
大正14年(1925)4月からは、長野県全域が松本連隊区の管轄に統括され、全県が徴兵区となり、名実ともに連隊は郷土部隊となり、松本は「軍都」として発展していきました。
そんな五十連隊は、戦況に応じて各地へ動員され、その都度出征、凱旋する松本駅に、大勢の市民が送迎しました。また、日本アルプスでの山岳訓練も重ね、全国に名だたる精鋭の山岳部隊となりました。昭和16年(1941)12月の太平洋戦争開戦後には、中部太平洋マリアナ諸島防衛のために動員され、昭和19年8月2日、テニアン島で軍旗を焼き、連隊最後の突撃を敢行し「玉砕」しました。
陸軍飛行場
 太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示されました。その月のうちに、笹賀国民学校に、神林・笹賀・今井の3村の地主が召集され、耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収調印しました。10月には測量が始まり、昭和19年2月下旬から整備工事が開始されました。
工事には、周辺の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人にも及んだと言われています。
陸軍飛行場が完成したのは昭和20年(1945)8月ですが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員たちがこの飛行場から飛び立っていきました。また、「赤トンボ」と呼ばれる練習機による訓練も行われていました。
本土空襲が激しくなると、格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されましたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用されました。

松本城付近で高射砲訓練を行う歩兵第五十連隊(所蔵:松本市文書館)
山岳での軍事訓練(所蔵:松本市文書館)
昭和23年に米軍が撮影した陸軍飛行場付近の航空写真(所蔵:国土地理院:国土地理院所蔵空中写真(1948年撮影)を加工して作成)

戦後の復興の歩み

消えゆく軍都の面影
 昭和20年(1945)8月に完成し、終戦後、無用となっていた旧陸軍飛行場の用地は払い下げられ、地元開墾組合によって開拓が行われました。また、昭和24年(1949)には信州大学が発足し、歩兵第五十連隊駐屯地の跡地には大学本部と医学部が置かれるなど、かつて戦争の様相を見せた場所は、市民の生活の基盤へと変わっていきました。

信州大学(旧歩兵五十連隊跡地)(所蔵:松本市文書館)

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