身延町
戦争被害の状況
東京から1,200人以上の学童が疎開
戦時中、政府は空襲により最悪の事態を考慮して軍需生産等に従事できない大都市の老幼婦女子は地方に疎開させることとしました。本町へは昭和19年(1944年)8月東京都芝区三光、四谷区第4、5、6、7の5国民学校の児童1,233名と教師39名、寮母65名が集団疎開してきました。これらの疎開児童は身延駅、総門、門内の各旅館及び山内各宿坊に分宿し、学寮での自習、身延山内や富士川の河原を利用して体操や手旗信号の訓練、駆け足など大日本少年団や軍隊生活のような規律ある生活を送るようになりました。(旧身延町誌から引用)