野々市市
戦争被害の状況
名刺を撒いて別れを告げた
中国に向かう兵隊を乗せた多くの軍用列車を見送りました。日の丸の旗を振りながら何回となく見送ったことを昨日のように思い出します。学校から歩いて北陸本線沿いまで行き、狭い道路に一列に並び軍用汽車を待ちました。やがて、列車をひいた汽車の煙が見えるやいなや、音も大きく聞こえ、多くの兵隊さんが列車から身を乗り出し、窓から手と日の丸の旗を振りました。そして、兵隊さんたちは私たちの見送りに応えられ、名刺を撒き、別れを惜しまれながら入営していきました。私たちは、列車が通過するたびに旗を振って、「バンザイ、バンザイ、バンザイ」と列車が通り過ぎて見えなくなるまで叫びました。あの時の私たちの見送りは、命を懸けた戦闘を前にした兵隊さんにとって、「お国のためにと勇気づけられ、しばしの慰めとなったのであろうか」と心の奥に今も固く残っています。(『聞き書野々市よもやま話』より)



戦後の復興の歩み
戦後の貧困状態からの脱却
終戦直後の町域は、食料品や医薬品、日常雑貨品等、あらゆる生活必需品が不足しており、また各町村財政も総力戦に破れて疲弊しきっており、地域住民の生活は困窮を極めていました。この時期の議会議事録には、「火災が発生した際に消防車が故障で出勤できなかったことの原因が、ラジエーターや電気系統の故障でエンジンが始動しなかったためであり、しかも故障していることは以前から分かっていたが、町財政の困窮から修理費が予算計上できなかったことが最大の理由である」と残っています。他にも、「道路上に汚物を満載したまま衛生車が放置されている原因が、パンクしたタイヤを交換できなかったためで、タイヤは注文したところである」との記録が残っており、当時の貧困な財政事情が理解できます。
その後、戦後復興が進み工場誘致されたことにより、町の財政は改善され、産業構造が大きく変化しました。昭和22年から30年にかけて、繊維工場等で働く第二次産業従事者が増加し、彼らを中心に町勢が伸長していきました。その後、昭和55年には第三次産業人口が半数以上を占める割合となり、野々市町は純農村地域から繊維工業地経て、現在のような学園都市及びベッドタウンとして急速に都市化していきました。(『野々市町史』より)


